第129話 八つ当たり?

「ダメだった……」


 がっくりと肩を落としながら呟けば、風呂場に海斗の声が響き渡った。

 昨日から今日の夕方に掛けて全く落ち着けなかったが、それも終わったのだ。

 ならば平穏が訪れるだろうと思っていたのに、これから海斗の理性が試される。


「いくら俺が無理なお願いしたからとはいえ、これはなぁ」


 利華に対して物申したかった凪に黙ってもらう代わりに、今日は彼女と一緒に風呂に入る事になった。

 凪は「八つ当たり」と言っていたものの、海斗を気遣っての事だというのは分かっている。

 それでも、まだ正式に想いを伝えていないこの状況でするものではない。

 だからといって、風呂場で告白するのは流石に有り得ないのだが。

 また、一応風呂場に向かう前に最後の確認を取ったものの「いいから先に行って」と話を聞いてもらえなかった。

 こうなれば腹を括るしかないと気合を入れれば、リビングから脱衣所への扉が開く音が耳に届く。


「っ!?」


 入れたはずの気合はあっさりと掻き消え、びくりと体が震えた。

 曇り硝子がらす越しにすら凪の姿を確認する気概を持てず、風呂場への入口に背を向けつつ小さな椅子に座ってジッと待つ。

 どくどくと早い心臓の鼓動を意識していると、ガラリと最後の扉が開かれた。


「……海斗、入るよ」

「ど、どうぞ」


 涼やかで聞き心地の良い声に羞恥が混じっていたので、提案した側ではあるが凪も恥ずかしいのだろう。

 ぺたぺたと素足が床を踏む音が鳴り、彼女が近付いてくる。

 思わず顔を俯けたが、そんな海斗の前に凪が立った。

 現在の視界では凪の真っ白な足しか見えないものの、首の角度を変えるだけで凪の体を見る事が出来る。

 その事実に頬が熱くなりつつも、意を決して顔を上げた。


「どう、かな? 変じゃない?」


 やはり恥ずかしいようで、凪が体の前面を隠してもじもじと体をよじる。

 そんな姿は確かに可愛らしいが、白磁の肌だけでなく紺色の布もばっちりと見えていた。


「…………変じゃありませんよ、綺麗です。スクール水着を褒めていいのかは怪しいですけど」


 どんな服装で風呂に入るかなど一切相談していなかったので、水着を着ていても問題ない。海斗は腰にタオルを巻いているだけだが。

 また、学校指定の水着ではあるが、凪が着ているというだけで華やかに見えるのだから不思議なものだ。

 しかし、海斗の胸には少なからず落胆の気持ちが沸き上がっている。


(いやいや、これが普通だろ。何を期待してるんだか)


 いくら凪が提案したとはいえ、初めから裸を見せ合う訳がない。

 そして、凪が水着を着て来た事で海斗の欲望が暴走しなくなったので、事態は好転していると言っても良いだろう。

 華やかさだけでなく艶めかしさもあるが、何も身に付けないよりかは遥かに海斗の理性への刺激が抑えられているのだから。

 しかし安堵とは反対に、想い人の肢体を見れるの期待していたのも確かなのだ。

 醜い自らの欲望に呆れながらも水着を褒めれば、凪が僅かに赤らんでいる頬をふにゃりと緩める。


「褒めていいよ。海斗なら特別」

「そう、ですか」


 例えスクール水着であっても海斗になら褒められたいし、褒めてもらえると嬉しい。

 態度と言葉の両方でその想いを示す凪を直視出来ず、視線を逸らしながら応えた。


「それと、海斗の体もすっごく綺麗」

「……どーも」


 海斗はほぼ裸のようなものなので、凪には体つきがバッチリと見えてしまっている。

 綺麗、と言われるような努力などしていなかったが、凪に言われると悪い気はしない。

 とはいえ素直に胸を張れず、素っ気なく応える事しか出来なかったのだが。


「それじゃあ早速海斗の体を洗っていくね」

「それなんですが、今日は背中だけでお願いします」

「どうして?」

「ま、まずは少しずつ慣らしていくべきかと思いまして」


 流石の凪も下半身を洗う事はないと思うが、上半身の前側だけでも海斗の理性に悪過ぎる。

 なにせ、目の前にスクール水着の許嫁が居る事になるのだから。

 しかし背中だけならば耐えられるだろうと提案すれば、凪は納得のいかなさそうに眉を下げつつも頷いてくれた。


「海斗がそう言うなら、背中だけにするね」

「ありがとうございます」


 お礼を言いつつジッと待っていると、凪はまずシャンプーを手に取った。

 海斗の背中側に回り込み、髪に触れてくる。

 洗う為だからか、普段海斗の頭を撫でる時よりも少し乱暴で力強いが、この感触も心地良い。

 誰かに髪を洗われた事など記憶になかったが、こんなにも良い気分になれるのなら、毎日やってもらいたいくらいだ。

 とはいえ理性に悪いのも確かなので、今の段階ではお願い出来ないのだが。


「痒い所はない?」

「大丈夫ですよ。すっごく気持ち良いです」

「ん。ならいい」


 あっという間に凪が海斗の髪を洗い終え、シャワーで泡を流していく。

 もう終わりなのかとほんの少しだけ心が沈み込んだ。

 しかし凪がボディタオルを泡立て始めたのを見て、海斗の胸に期待の火が灯る。


「次は背中」


 凪が海斗の背中にボディタオルをゆっくりと擦り付けた。

 髪と違ってあまり加減が掴めないのか、かなり優しく洗ってくれている。

 決して悪い感覚ではないが、あまり洗われている気がしない。


「もうちょっと強くても大丈夫ですよ」

「そう? 分かった」


 海斗の言葉で遠慮を無くしたのか、力加減が海斗にとって一番好ましいものになる。

 そのまま洗われる感覚に浸っていると、背中からほう、と溜息のような吐息が聞こえてきた。


「疲れましたか?」

「ううん、全然。海斗の背中って大きいんだなって」

「そりゃあ俺は男でも背が高い方ですからね」


 海斗の背は自信を持って長身とは言えずとも、平均からすれば十分高い方に入っている。

 女性の平均よりも背が低い凪からすれば、かなり大きく見えるはずだ。

 凪に褒めて貰えるくらいに成長出来たのが嬉しく、海斗の唇が弧を描く。

 しかし、背中に指が這う感覚でびくりと体が震えた。


「ど、どうしたんですか?」

「驚かせちゃってごめんね。海斗を抱き締める時に背中には触れてるけど、何だかすっごく逞しいなって思って」


 普段は単に抱き締めるだけなので、海斗の背中に意識が向かないのは分かる。

 だからこそ海斗の背をじっくりと見られるこの状況で、ようやく意識したのだろう。

 興味があるのは構わないが、背中を撫でられるのはくすぐったい。

 むずむずとしたものが沸き上がり、このままでは何かが危険だと理性が訴えてきた。


「それは嬉しいですけど、洗っていただけると……」

「あ、ごめんなさい。流すね」

「お願いします」


 凪はあっさりと引いてくれ、シャワーからお湯を出して海斗の背中を流し始める。

 安堵に胸を撫で下ろしているうちにそれも終わり、凪が再び海斗の前に立った。


「これで終わり。後は自分でやるんだよね?」

「はい。でも、ジッと見ないでくれると助かります」

「じゃあその間に私も体を洗っておく。水着をずらせば洗えるから」

「……凪さんがそれでいいなら」


 上半身ならまだしも、下半身を洗っている姿を見られるのは恥ずかしい。

 なので凪の提案は有り難かったが、それはつまり彼女が海斗のすぐ後ろで水着を脱ぐという事だ。

 風呂場は広いので二人が同時に体を洗っても問題はないものの、海斗が振り向けば凪の肢体が見えてしまう。

 それを凪も分かっているようで頬が僅かに赤らんでいるが、彼女がそれでいいのなら何も言うまい。

 とはいえ、体を洗ってくれたのに何も返さないのは駄目だ。


「そうだ。凪さんの髪は俺が洗っていいですか?」

「別にいいけど、やってくれるの?」

「勿論ですよ。でも、先に自分の体を洗っておきたいんですが、それでもいいですか?」

「大丈夫。なら体だけ洗っておく」


 順番は気にしないのか、あっさりと凪が承諾し、二人同時に体を洗いだす。


「海斗、洗顔取って」

「これかな? はいどうぞ」

「次はボディーソープ」

「はい」


 ボディーソープ類が置かれている棚が海斗の横にあるので、凪は海斗にお願いしなければならない。

 それだけでなく、後ろ手に渡した洗剤等を凪の手が掠める感覚から察するに、彼女も背を向けているのだろう。

 一つの風呂場の中で背を向け合って洗う状況が何だかおかしくて、小さく笑う海斗だった。

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