第128話 あれよあれよという間に

「昨日からお疲れ様、海斗くん」


 沖嗣が喫茶店から出てすぐに、清二が近付いてきた。

 彼は二つのコップを持っており、それが海斗と凪の前に置かれる。

 注文などしていないと首を傾げれば、清二が茶目っ気たっぷりに笑った。

 お代は必要ないという意思に甘え、小さく頷いてからコップに注がれたコーヒーを口に含む。


「……ありがとうございます」


 海斗は座って話を聞いていただけなので、清二の言葉を受け止めてはいけないのかもしれない。

 しかし、否定すれば自分を卑下したと凪に怒られるだろう。

 正直なところ清二の言うように精神的に疲れたので、あまり否定し辛いというのもある。

 申し訳ないと思いつつも清二に甘えれば、彼の顔が柔らかく綻んだ。


「色々あったけど、これで海斗くんの生活は変わる。……寂しくなるね」

「はい? 寂しくなる?」


 清二の淡い微笑みと悲しみを帯びた言葉に首を傾げる。

 すると、清二も僅かに首を斜めにした。


「だって、海斗くんはもうバイトしなくてもいいじゃないか」

「そりゃあまあ、そうですが。まさか辞めると思ってたんですか?」

「むしろ、凪ちゃんとの時間を作る為に辞めないといけないだろう? そういう話じゃなかったっけ?」


 当然だとでも言わんばかりの真っ直ぐな目で見つめられ、脱力感が海斗を襲う。

 頭の回転が速いはずの清二だが、どうやら今日は違うらしい。


「辞めませんって。むしろこれまで通り、土日の夕方は出させてもらいたいです」

「え、いや、でも……」

「俺は今の生活でも凪さんとの時間を十分に作れてますよ。偶に休みをもらうかもしれませんが、それもこれまでと同じじゃないですか」


 海斗が望んだのは、お世話係という立場を辞める事だ。

 バイトを辞めると言った覚えはないし、土日だけ働く程度なら負担にすらならない。

 ちらりと凪を見ると特に不満はないらしく、柔らかく笑んでいる。

 しかし清二にとっては余程意外だったようで、珍しくうろたえていた。


「そ、そりゃあ必ず土日は働けっていう訳じゃないし、休みも取っていいけど、何でだい?」

「土日だけの給料でいいんで、小遣いが欲しいんですよ」


 家賃等の生活費は一ノ瀬家が補助してくれると決まったし、私的な事で生じるお金についても、美桜伝いに沖嗣へ話せばある程度は出してくれるのだろう。

 沖嗣とは一応利用し利用される関係なので、遠慮なく甘えればいいのかもしれない。

 しかし、無理しない程度に自分でお金を稼ぎたいのだ。

 あまりにも自分勝手な欲求を通す為に、唇の端を緩めて清二を見つめる。


「高校生が小遣い欲しさにバイトするなんて、いかにも普通じゃないですか」


 生活費ではなく、ただ海斗が好き勝手に使う為のお金。

 清二からもらっていたバイト代には遠く及ばないだろうが、それでも貴重なものだ。

 そして、それはようやく海斗が普通のバイトを出来るようになったのと同義でもある。

 してやったりという笑みを清二に向ければ、彼は一瞬だけ驚きに目を見開き、それから思いきり破顔した。


「ははっ! 確かにそうだね!」

「なら――」

「ああ。土日はこれまでと同じように、バイトしていいよ。勿論、凪ちゃんを優先するのは忘れずにね」

「はい!」


 あくまでも優先順位の一番上は凪であり、それを間違える事はない。

 しかし、そのすぐ下には恩人である清二が居るのだ。

 生活が変わればそれで終わるような縁にはしたくない。

 それが叶った事で、大きく頷いて立ち上がった。


「それじゃあ今日は帰りますね」

「分かったよ。次に店を開ける日はまた連絡するね」

「了解です」

「清二さん、また」


 清二に見送られ、凪と共に喫茶店を後にする。

 店から出てすぐに手を繋ぎ、向かうのはスーパーだ。


「今日の晩ご飯はカレーがいいな」

「なら肉たっぷりのビーフカレーにしますか」

「うん!」


 既に利華の事は頭から追い出したのか、それとも単に清二と海斗がこれまでと同じ関係を続けるのが嬉しいのか、凪がふわりと表情を綻ばせる。

 何の憂いもない彼女の笑顔を見られたのが嬉しく、絡まった指に僅かに力を込め、凪とゆっくり歩くのだった。





「というか、ですよ」


 凪と共にスーパーから帰ってきて、一緒に家事や料理の下拵えをしてから晩飯のカレーを煮込んでいる最中。

 そういえば確認を取っていない事があったと、言葉を発した。

 唐突に話を振られたからか、凪がきょとんと無垢な顔で首を傾げる。


「何?」

「今更な話ですが、俺の引っ越しを勝手に決めて良かったんですか?」


 今日の詳細が決まった時から、凪は西園寺家の人と連絡を取っているように見えなかった。

 つまり海斗が凪の家へ引っ越しする件については、彼女が勝手に決めた事になる。

 それで良かったのかと確認を取ると、凪は迷いなく頷いた。


「いいよ。海斗はこれから私と一緒に居てくれるんでしょ? なら一緒に住んでも良くない?」

「……いや、まあ、そうなんですけどね。博之さん達が何か言わないかな、と」


 凪としては何の問題もないかもしれないが、博之達は違うかもしれない。

 とはいえ、昨日の時点で沖嗣が西園寺家と話をすると言っているので、何も言われないうちは大丈夫なのだろう。

 しかし僅かな不安から眉を下げれば、凪が突然ポケットからスマホを取り出した。


「じゃあ海斗の為に確認を取る」

「いきなり過ぎません!?」


 海斗の言葉を無視し、凪が博之に電話を掛ける。

 心の準備など出来ていないのだが、殆どコール音は鳴らず、凪のスマホから『こんばんは』と優し気な声が聞こえた。


『何か用事かな?』

「一ノ瀬家から何か話があった?」

『ああ、あったよ。婚約というよりは許嫁だけど、おめでとう。二人共、羽目を外しすぎちゃ駄目だからね』

「滅茶苦茶軽いですね……」


 いくら沖嗣が連絡するとはいえ、許嫁の件も含めて海斗は博之達と何も話していない。

 なのでもっとあれこれ言われるかと思ったが、想像以上に緩い言葉が返ってきて肩から力が抜けた。


『何となくこうなるのは分かってたからね。僕も桃花も海斗くんが西園寺家に来るのは大賛成だし、文句なんてないよ』

「……ありがとう、ございます」


 正月に会った時から察していたが、西園寺家は海斗を受け入れてくれる。

 何の迷いもなく告げられて、目の奥がじくりと痛んだ。


「じゃあ次。海斗を私の家に引っ越しさせる件は?」

『それもさっき沖嗣さんから聞いたよ。困った事があったら言ってね』

「ホントに軽いですね!?」


 海斗の引っ越しすらあっさりと許され、流石に突っ込みを入れてしまった。

 怒られるかと思ったが、沖嗣が電話越しにからからと笑う。


『だって、今も似たようなものじゃないか。僕が気にする事なんて何もないよ』

「確かにそうですが、いいんですね?」

『勿論。ああ、明日は初詣の日だから昼前に迎えに行くよ』

「話が飛びすぎですって!」


 もう海斗と凪の婚約や引っ越しについて話す事はないらしい。

 しかし凄まじい話題の変化っぷりに、気を遣う事もせず突っ込んだ。

 先程と同じように、どこ吹く風という風な笑い声が電話越しに聞こえてくる。


『特に言う事はないって言っただろう? まあ、そういう事だ。それじゃあね』

「……ありがとうございます。博之さん」

「また明日。おやすみ、お父さん」


 あっさりと電話が切れ、澄んだアイスブルーの瞳が海斗を見上げた。

 美しい顔には、悪戯が成功したような笑みが浮かんでいる。


「全部解決。何か意見は?」

「アリマセン」


 強引に電話した凪と、強引に話を纏めた博之。

 血は繋がっていないはずなのに、似た行動をした二人に負けを認めて手を上げるのだった。

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