第127話 とっくに諦めていた願い

 凪と共に、特にあてもなくゆっくりと閑静な住宅街を歩く。

 喫茶店を出てから、海斗と凪の間には手が繋がれていた。


「お疲れ様、海斗」

「ぶっちゃけ俺は何もしてないんですよね。凪さんこそ、一緒に居てくれてありがとうございました」

「私の方こそ何もしてない。まあ、頑張って耐えたけど」

「そうですね。本当に、ありがとうございました」


 利華が暴言を吐くたびに、凪はどんどん怒りを心に貯めていっていた。

 喫茶店に行く前に釘を刺していなかったら、確実に怒鳴っていただろう。

 怒ってくれるのは嬉しいが、話が拗れて親権が移せなかったら元も子もないのだから。

 凪に我慢を強いた結果として話が上手くいったのは辛いものの、終わったのなら凪を落ち着かせるのが海斗の役目だ。

 

「もう全部終わったんです。あいつの事なんて気にしなくていいですよ」

「そう、だけど……。でも、ちょっとくらい海斗の事を気遣っても……」

「無理ですよ。あいつを見たら分かったでしょう?」


 自分の利益しか考えず、息子を道具かそれ以下としか見ない母親。

 腹を痛めて生んだのだし、家に居させてやっているのだから役に立てという、あまりにもな情の無さ。

 苦笑を落とせば、彼女が顔を曇らせて頷いた。


「……うん。だけど、それでも、あの人は海斗の母親なのに」


 どんな形であっても、海斗と利華は血が繋がっている。

 だからこそ、ほんの少しであっても息子に愛情を向けて欲しかったという凪の願い。

 あの姿を見た上で海斗の為にそう思えるのだから、凪は優し過ぎる。

 彼女の気持ちに胸が温かくなるのと同時に、利華が喫茶店を去る時に感じた胸の痛みが何なのかも分かった。


(そっか、俺はあの人に愛されたかったんだ)


 たったの一度でもいい。一言であっても構わない。普通の息子として接して欲しかった。

 とっくの昔に諦めていたはずだが、まだ海斗はそんな望みを抱いていたらしい。

 今更自覚してもしょうがない事だし、早めに気付いたとしても叶わなかっただろう。

 そして、ついに海斗の望みは潰えた。

 僅かな後悔が胸を刺すが、気にしても仕方がないと割り切って肩を竦める。


「俺の家は愛情のない家庭だった、というだけですよ。まあ、それも終わりましたが」

「…………そうだね」


 分かっていても納得出来ないようで、凪が沈んだ声を発した。

 あまり過去を引きずっても仕方ないと、空気を変える為に凪の手を軽く引っ張る。


「そろそろ戻りましょうか。ようやく、これからの俺達の話が出来ます」

「ん。そうしよう」


 もう天音利華とは縁が切れ、海斗はようやく凪の隣に並べるようになった。

 その理由が誇れるものでなくても、構わないと決めたのだ。

 海斗が気にしないからか凪も割り切ったようで、微笑を浮かべて喫茶店へと戻る。

 ベルの音を鳴らして店に入れば、割れたコップは綺麗に片付いており、沖嗣は先程までとは別のシャツを着ていた。

 いつの間に用意したのか興味を引かれるが、事前に準備していたのだろう。


「休憩はもういいのかい?」

「はい」

「それじゃあ今後の話をしようか」


 沖嗣の向かいに海斗が座り、その隣に凪が、沖嗣の隣に静音が座った。

 美桜が居ない事以外は昨日と同じ光景の中、沖嗣が口を開く。


「これから海斗は一ノ瀬家の一員となるが、昨日話した通り一ノ瀬家に縛られないようにする。ただ、残念ながら私の家には住まわせられない。申し訳ないけど、これはどうしようも出来ないんだ」

「でしょうね」


 いくら沖嗣の息子であり西園寺家と繋がる海斗であっても、一日の過ちで出来た子供なのだ。

 そんな人物を、実家に置いておける訳がない。

 納得の上だと頷けば、沖嗣が僅かに眉を下げた。


「代わりとして、これから私が正式に海斗の生活を支えていく。その上で、一つだけ条件を出させて欲しい」

「……条件、ですか?」


 海斗の金銭面を――更に言うなら生活を改善する為に一ノ瀬家の庇護を得る決意をしたのだ。

 それは分かっているものの、後出しであれこれ言われるのは流石に勘弁して欲しい。

 そもそも、海斗は一ノ瀬家に縛られないのだ。言っている事が違うのではと、沖嗣に怪訝けげんな目を向ける。

 すると、沖嗣が慌てた表情で首を振った。


「海斗に負担を掛けないから、警戒しないでくれ」

「じゃあ、その条件は?」

「あのボロアパートから出る事。それだけだ。あの家は人がまともに住める場所じゃないからね」


 現在住んでいるアパートに未練はないし、生活環境が最悪なので引っ越すのは構わない。

 しかし、既に海斗は天音家に入れなくなっている。


「別にいいですけど、それじゃあ俺はどこに行けばいいんですか?」

「その件で相談なんだけど、西園寺凪さん――貴女の家に海斗を住まわせてあげてくれないか?」

「え?」


 突然話を振られた事で、凪が驚きに目を見開いた。

 しかし沖嗣の言葉の意味をすぐに理解し、嬉しそうに顔を綻ばせる。


「はい! どうせ部屋は余ってますので、大丈夫です!」

「え、あ、ちょっと」

「決まりだね。引っ越しはこっちで行うよ。それから支えると言った通り、海斗の生活費も出す。私から何かある時は美桜に伝えるし、海斗がもし私に連絡したいときは美桜に伝えてくれ」

「は、はい」

「じゃあこれで話は終わりだ。行こう、静音」


 凪と沖嗣の間で、海斗の凪の家への引っ越しが決まってしまった。

 それは構わないが、沖嗣があっさりと話を纏めて立ち上がった事に焦りを覚える。

 静音と一緒に喫茶店を出て行こうとする姿に「待ってください!」と声を掛けると、海斗の声にぴくりと体を揺らして沖嗣が振り返った。

 今までの穏やかな微笑は、何の感情も見えない表情へと変わっている。


「……何だい?」

「どうして……。どうして俺にお金を払っていたんですか! どうして俺を庇ったんですか!?」


 昨日までの話や沖嗣の態度を見ると、海斗に対して道具以上の感情を持っていないと思ってしまう。

 だがそう考えると、海斗が知らない内に生活を支援され、利華から庇うのは明らかにおかしいのだ。

 今を逃せば二度と聞けない気がして尋ねると、沖嗣が一瞬だけ顔を歪ませ、それから無表情へと戻る。


「金など払っていない。それに、庇ったのは今後の関係にひびを入れない為だ」

「はぁ!? 何を言って――」

「失礼するよ」


 海斗の言葉に耳を貸さず、沖嗣と静音が喫茶店から出て行った。

 あまりにもちぐはぐな沖嗣の言葉に、顔を俯けて考える。


(まさか)


 利用し、利用される関係のはずの実の父。しかし、本心では全く別の事を考えていたならば。

 海斗の脳裏に一つの仮説が閃くが、それを確認するすべはもうなくなった。

 僅かな後悔が沸き上がり、呆然と喫茶店の扉に目を向ける。


「海斗……」

「……大丈夫です。大丈夫ですから」


 心配そうな顔で海斗を見上げる凪に笑みを返す。

 実の母とは縁が切れ、実の父とは腹を割って話す事も出来ない。

 それでも、凪の隣に並べるようになった。

 これで良かったのだと強引に納得し、凪に笑みを向けるのだった。









「沖嗣、あれで良かったの?」


 隣を歩く妻が、心配そうな声を掛けてくれた。

 散々振り回されているというのに、それでも沖嗣を慕ってくれる彼女には頭が上がらない。


「いいんだよ。あれで、良かったんだ」

「でも……」

「支援の為の金は別の人間の欲を満たす為に使われ、息子は毎日の生活すら大変だった。それを知りながら何もしなかった男は、父親ぶる資格などないんだから」


 価値のない状態の海斗と、静音や美桜、そして一ノ瀬家に関わる者を天秤に掛け、沖嗣は後者を取った。

 こんな男など、海斗の父親ではない。ならば、利用し利用される関係が一番だろう。

 例え実の息子から嫌われようと、今度こそ支援出来るのならそれでいいのだから。

 胸の痛みを堪えて笑えば、静音が納得のいかなさそうな表情をしつつも小さく頷いた。


「……分かったわ」

「静音こそいいのか? 全く血の繋がらない息子が出来るんだぞ?」

「構わないわ。むしろ私としては息子が出来るのは嬉しいし、一度でいいから家族で食事をしたいくらいよ」

「それは、無理だろうな」


 海斗が一ノ瀬家の一員になったとはいえ、家族団欒には程遠い。

 それどころか、そんな光景が訪れる可能性を沖嗣が潰してしまった。

 会社の経営は出来るのに、家族仲すら満足に築けない無力さが憎い。


「…………本当に最低最悪だな、私は」


 沖嗣がたった一夜、重圧から逃れようとしたから始まった苦痛。

 けれど、苦痛が降りかかるのは沖嗣だけではなかった。

 息子には今の今まで普通の生活をさせてやれず、真実を教えずにいた結果、娘は半分血の繋がった兄に恋をしてしまう。

 そして妻である静音は、許嫁でありながら浮気されたと陰で悪口を言われる。

 もし死ぬ事でつぐなえるのならば、喜んで命を差し出すだろう。

 しかし現実はそんな簡単な話ではない。誰から非難されようと、沖嗣は生きて罰を受け続けなければ。

 その罰を傍で一緒に受けてくれる妻へと、苦笑を向けた。


「弱気な事を言ってすまない。帰ろうか」

「ええ。でも約束したはずよ? 私にだけは、弱音を吐くようにって」

「……そうだったね。ありがとう、静音」

「いえいえ」


 ずっと抱えていた悩みが少しだけ解決し、安堵に胸を撫で下ろす沖嗣だった。

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