第126話 縁切り

「何、ですって………?」


 信じられないという風な表情の利華が、テーブルに置かれた書類へ目を向ける。

 そんな利華を、温度の無い目で沖嗣が見つめた。

 彼には聞きたい事があるものの、答えてくれるような雰囲気ではない。


「二度言わなければ分からないか? お前から海斗の親権を剥奪はくだつすると言ったのだ」

「こ、こんなの卑怯よ!」


 明らかに利華が動揺しているので、書類にこれまで彼女が海斗にしてきた行いが書いてあるのは確定だ。

 しかし、利華は頷くどころか青かった顔を一瞬で赤くして怒鳴った。

 海斗を取り合う光景ではあるものの全く喜べず、細く息を吐き出す。

 とはいえ、沖嗣に関してはどうにも分からなくなってしまったのだが。


「私のプライベートを探ったんでしょう!? 犯罪じゃない!」

「私は法にのっとって行動しただけだ。それで海斗への仕打ちが露呈するような杜撰ずさんな事をしたお前が悪い」


 決して犯罪行為はしていないと、沖嗣が真っ直ぐに言い返した。

 いつから調査していたのかは分からないが、海斗が高校に入学する前ならば、虐待に関しても簡単に証拠を掴めただろう。

 あっさりと言い返された事で、利華が言葉を喉に詰まらせる。


「な……」

「勿論、私は法廷で争っても構わない。きちんと海斗へのお金は渡していたからな。さて、どうする?」

「…………」


 すぐに海斗の親権を渡すか、それとももっと話を大事にするか。

 この時点で、西園寺家の恩恵を受けるという利華の望みは叶わなくなった。

 あまりにも利華に得のない二択だが、最早逃げる事は出来ない。

 どうするのかと様子をうかがっていると、彼女が顔を俯けて肩を震わせ始めた。


「…………わよ」

「早く決めろ。それとも、私に決めて欲しいのか?」

「ふざけんじゃないわよ!」


 利華が勢い良く顔を上げ、テーブルに拳を叩きつける。

 沖嗣の言葉は聞こえていないようで、彼女の視線は海斗に向けられていた。

 二つの瞳の奥には、ただひたすらに憎悪が込められている。


「私はあんたを育てたのよ!? なのにあんただけが裕福な思いをするなんて、おかしいじゃない!」

「お前は私の金を使って、十分裕福な生活をしているだろうが。まあ、これからはそれも無くなるが」 

「育てられたのなら、私にその分の利益を返しなさい!」

「……沖嗣さんの話を聞いてましたか? あなたは俺をまともに育ててなかったんですよ?」


 相変わらずの理不尽な物言いをする利華に、どうせ届ないと思いつつも毒を吐く。

 中学校まで利華と一緒に暮らしていなければ、海斗はもっと苦しい生活を送っていただろう。

 それは確かだが、暴言と暴力に塗れた人生に感謝したいとはとても思えない。

 沖嗣からもらっていたお金の殆どを自分で使っていたのなら、尚更。

 

「中学校まで家に居させてやっただけでも有難いでしょうが!」

「私は海斗に不自由ない暮らしをさせろと言ったはずだが?」

「は? こんな役立たずなんて、生きているだけで十分でしょ!」


 分かってはいたが、利華は自分の非を認めない。

 沖嗣の更なる暴露にちらりと彼を見るが、相変わらず視線が合わなかった。

 凪はというと、利華のあまりの言いように怒りを通り越したのか、表情が完全な無になっている。


「一ノ瀬家に取り入る事も出来ない。西園寺の恩恵すら私に与えない。ホント役立たずの屑ね」

「そこまでだ。早く決めろ。これ以上お前のくだらない八つ当たりに付き合うつもりはない」

「……」


 海斗への暴言に堪忍袋の緒が切れたようで、沖嗣が一段と低い声を漏らした。

 誰も自分の話を聞かないと理解したのか、ついに利華がテーブルへと手を伸ばす。

 しかし、その手は水が入っているコップを掴んだ。


「あんたなんて産まなければ良かったわ! この疫病神!」


 利華が思いきりコップを海斗へと投げつける。

 何となく予想していたし、水に濡れるかコップで多少怪我する程度で話が進むなら安いものだ。

 そう思ってジッと座ったまま受け入れようとしたが、突然隣に座っていた沖嗣が割って入る。

 当然ながらコップは沖嗣に当たり、床に落ちて割れた。


「沖嗣さん!」

「……大丈夫だ」


 流石に心配になって声を掛ければ、沖嗣がちらりと振り返って僅かに目を細める。

 どうやら胸に当たったらしく怪我はしていないようだが、シャツがぐっしょりと濡れていた。

 不幸中の幸いではあるものの、沖嗣はコップを投げられた事などなかったかのように利華へ鋭い視線を送る。


「いい加減にしろ! ここで親権を渡すか、法廷で争うか!」


 沖嗣が怒鳴った事で、流石に頭が冷えたらしい。

 利華が怖じ気づいたように視線を逸らした。


「…………渡せば、いいんでしょ」

「ならさっさと書け」


 今までの癇癪かんしゃくは何だったのかという風に、静音が差し出してきた紙に利華がサインする。

 一連の流れを見守っていた静音だが、彼女の瞳には利華への隠しきれない怒りが灯っていた。

 それは隣に座っている凪も同じようで、膝の上に置いている両拳が震えているのが見える。

 おそらく似たような事がもう一度あれば、静音や凪は黙っていないだろう。


「これで、いいでしょ?」

「ああ、十分だ。さっさと店から出ろ」

「そうさせてもらうわ。……何の役にも立たなかった屑なんだから、お荷物になるに決まってるわ」


 利華が呪詛のような言葉を残し、喫茶店を後にした。

 親権が沖嗣に移った以上、おそらく利華と会う事は二度とないだろう。

 あまりにもあっさりと訪れた別れに、呆然と喫茶店の出口を見つめる。


(何か、実感湧かないな……)


 別に、利華に対して情がある訳ではない。

 それどころか、言いたい事が山程ある。口にしないのは、どうせ言っても無駄だと諦めているだけだ。

 なのに、何故か胸が痛んだ気がする。

 有り得ないと頭を振り、利華と縁が切れた事に胸を撫で下ろした。

 最後の最後まで自分の行動を顧みなかった女が去った事で、喫茶店の空気が穏やかになる。


「…………話も一段落したし、良かった良かった」

「良かったじゃありませんよ、沖嗣! すぐに拭きます!」

「すまないね」


 静音が慌てた表情で沖嗣のシャツを拭く。

 その姿は、夫を心配する妻そのものだ。

 二度目である仲睦まじい姿に驚いていると、喫茶店の奥から清二が出てくる。


「沖嗣さんのシャツや割れたコップもありますし、今後の話もしなければいけませんから、一度休憩しましょうか」


 海斗の親権は沖嗣に移ったが、それだけで終わりという訳にはいかない。

 こんな状況で話を続けるのも気まずいので、休憩は有り難かった。

 それに、沖嗣には聞きたい事もある。

 折角なので片付けを手伝ってから尋ねようと思ったのだが、凪が服の裾を摘まんできた。


「じゃあ海斗、散歩に行かない?」

「えっと、俺はちょっとコップを――」

「それは僕がやっておきますから、海斗くんも休憩しなさい」

「……分かりました。それじゃあ行きましょうか」

「ん」


 凪は海斗を気遣ってくれたのだろうが、あまりにもタイミングが悪過ぎる。

 とはいえ怒るつもりなどないし、清二が凪の提案に同意した事からして、今の海斗は周りから見ても動揺しているのかもしれない。

 ならば一度心を落ち着かせるべきだと、凪と共に喫茶店を出るのだった。

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