第125話 天音利華

 凪におしおきされた次の日。海斗と凪は、昼過ぎに再び喫茶店へと向かっている。

 沖嗣に任せたので状況がどうなっているのか分からないが、駄目だったならば喫茶店の主である清二から連絡が来るはずだ。

 つまり利華との話がついており、彼女が喫茶店に来る。

 今までの海斗と利華の関係を知っているからか、隣を歩く凪が心配そうな表情で海斗を見上げた。


「本当に大丈夫?」

「大丈夫ですって。意外と落ち着けてます」


 半年以上電話でしか会話していなかった実の母との会話がこれから始まるし、確実に暴言を言われるだろう。

 しかし、海斗の胸は驚く程に静かだった。

 それは利益がある以上、海斗と凪の婚約を逃すはずがない沖嗣や、何よりも凪が傍に居てくれるお陰だと自信を持って言える。

 沖嗣に関しては利用し利用されるドライな関係だが、だからこそ信用出来るというのもあるが。

 とはいえ、落ち着いているのが海斗だけではいけない。凪とて当事者なのだから。


「だから、俺は凪さんを心配してますね」

「何で私?」

「俺が母から暴言を吐かれたら、間違いなく怒ってくれるでしょう?」

「当然。海斗のお母さんには言いたい事が山程ある」


 アイスブルーの瞳に剣呑な光を灯らせ、凪が握り拳を作った。

 残念ながら仕草が可愛らしいので今はあまり迫力がないものの、利華の前ならば凄まじい圧を発するはずだ。

 何の迷いもなく即答してくれた事が嬉しく、海斗の頬が緩む。

 けれど、ゆっくりと首を振って凪の行動を拒否した。


「それは無しでお願いします」

「どうして?」

「俺と母はもう終わってます。ぶっちゃけ、凪さんが何を言っても駄目でしょう」

「そうかもしれない、でも――」

「無理です。あの女は、そういう人間なんですよ」


 十年以上も一緒に居たからこそ、利華の性格は良く分かっている。

 凪がどんなに正論を振りかざしたり、海斗の息子としての立場を訴えても無駄だ。

 だからこそ、いくら凪の行動が嬉しくても彼女を止めたい。

 諦観と共に呟けば、凪の瞳に怒りの色が見えた。


「海斗、まさか昨日の事、忘れてないよね?」

「はい。暴言を吐かれてもいいとは思ってません。でも、世の中には居るんですよ。どうしようもない人間が、どうにもならない関係が」

「でも……」


 これからの利華との会話で、凪が怒る必要は全くない。

 そもそも、これから利華との縁を切るのだ。そんな人に母親失格だと伝えても仕方ないだろう。

 しかし凪は納得出来ないようで、唇を尖らせている。

 駄々を捏ねるような姿だが、それが海斗の為だと分かっているので、胸が温かくなった。

 これだけで、海斗は喫茶店で何を言われても耐えられる。


「だから凪さんには申し訳ありませんが、耐えてくれると嬉しいです。…………すみません」


 正直なところ、海斗を大切に想ってくれている人にこんなお願いはしたくない。

 しかし、その上で深く頭を下げた。

 苦言を呈されるのか、それとも海斗の懇願を受け入れないのか。全く予想がつかないまま、凪の言葉を待つ。

 暫くすれば「顔を上げて」と透明な声が耳に届いた。

 ゆっくりと凪の顔を視界に収めていくと、彼女の頬が膨らんでいるのが見える。


「…………分かった。海斗の言う通り、取り敢えず怒らないでおく」

「ありがとうございます」


 本当は納得したくないだろうに、それでも凪は海斗の想いを汲んでくれた。

 もう一度頭を下げれば、彼女が腰に手を当てて胸を張る。


「でも、たっぷり八つ当たりさせてもらうから」

「具体的な内容は?」

「一緒にお風呂に入ってもらおうかな」

「それは八つ当たりじゃないと――分かった。分かりましたよ」


 痛くはないが、腹に拳が飛んできて負けを認めた。

 今までと違う事がしたかったのか、それとも楽しみにしていたのかは分からない。

 あるいは、一緒に風呂に入る事で海斗を癒そうと考えたのか。

 何にせよ、今日の夜は海斗の理性が試されるのが決まった。

 肩を竦めて八つ当たりを受け入れ、止まっていた足を前に進める。

 そして集合時間の五分前に、喫茶店へと着いた。


「それじゃあ、行きましょうか」

「ん」


 凪の顔を見て最後の確認を取り、喫茶店の扉を開ける。

 カランと乾いた音を響かせて中に入ると、そこには沖嗣と大学生と勘違いしてもおかしくない程に若い見た目の女性が居た。

 艶のある黒髪は肩まで伸ばされ、メリハリの効いたいかにも男を喜ばせる体つき。そして肌は瑞々しさに溢れている。

 顔立ちは凪に負けないどころか、下手をすると彼女よりも整っていた。

 不機嫌さを隠そうともしない冷たい表情であっても、それが一つの完成形だと思わせる程の姿。

 とても高校生の息子が居るとは思えない女性が、天音利華だ。


「やあ、海斗くん。こんにちは」

「……」


 テーブルを挟んで利華と座っていた沖嗣が、小さな笑みを浮かべて海斗と凪へ挨拶した。

 利華はというと、海斗ではなく隣の凪を一瞥いちべつしたきり、すぐに視線を戻す。

 開口一番暴言が飛んで来ると思ったが、そんな事はなくて一安心だ。

 とはいえ、露骨に海斗を無視した事で凪の肩が苛立ちに跳ねたが。


「「こんにちは」」

「取り敢えず座ってくれ」

「「はい」」


 沖嗣と短い挨拶を交わし、海斗と凪もテーブルに着く。

 当然ながら、利華と向き合う形でだ。三対一ではあるが、気にする必要もないだろう。

 清二が水を持ってきてくれたが、誰も口に含まない。 


「それで、今更そいつを引き取ろうなんてどういうつもり?」


 世間話をするつもりなどないのか、利華があっさり本題を口にした。

 自己紹介すらしなかったのは、海斗と沖嗣は当然として、凪が海斗達の味方だと判断したからだろう。

 さっさと話を済ませてしまいたかったので、海斗としても有難い。


「息子は近々この人――西園寺凪さんと婚約するのでね。だから私の所に戻す」

「…………よろしく、お願いします」


 一応の紹介をされたからか、凪が小さく会釈をした。

 すると、利華が大きく目を見開く。


「『西園寺』って、まさか――」

「そう。お前も多少は聞いた事があるんじゃないか?」

「………」


 今までただの沖嗣の味方としか思っていなかった凪に改めて利華が目を向けた。

 美しい黒曜石のような瞳の奥には、泥のような欲望が渦巻いている気がする。

 それを凪も感じ取ったようで、僅かに顔を顰めた。


「却下ね。そいつが西園寺の子と婚約するなら、私が西園寺家に入る事になるんだもの」

「………相変わらず、そういう事しか考えていないな」


 海斗が凪と婚約する事でどうなるか。それをすぐに理解した利華が、あっさりと沖嗣の提案を蹴った。

 あまりにも自分勝手な言い分に、沖嗣が嫌悪感をむき出しにする。

 しかし沖嗣の態度に全く動じず、利華が唇の端を釣り上げた。


「それの何が問題なのよ? 私はそいつを育てたのよ? なら、私にだって西園寺家の恩恵を受ける権利があるわ」

「育てた………?」


 海斗へと虐待紛いの事をしておいて手柄のように誇った利華に、凪が目に怒りを灯らせる。

 しかし海斗との約束通り抑えてくれるようで、すぐに平静な態度へと戻った。

 沖嗣はというと、利華の態度は分かっていたという風に冷たさすら感じる無表情で首を振る。


「それはお前が息子の――海斗の親であったらの場合だ。そして、どちらの息子が良いかは海斗自身が決めるべきだろう」

「はぁ? そいつの意見を聞く必要なんかないわよ。私は絶対に親権を譲らない。というか、あんたの口ぶりから美味しい話があると思ってここに来たんだから、詳細を聞かずに来た私に感謝して欲しいくらいね」


 息子の意見すら聞かず、西園寺家の恩恵を受けると言って聞かない利華。

 そんな彼女に対し、沖嗣が大きな溜息をつく。


「どうしても、か?」

「どうしてもよ」

「そうか、ならば仕方ない」


 沖嗣が口を開き「静音」と大きな声を発した。

 すると喫茶店の奥から、いつから準備していたのか沖嗣の妻である静音が出て来る。

 手には紙束を持っており、それがどうにも気になった。

 ゆっくりとテーブルに近付いてきた静音が、利華の前に紙束を置く。

 

「では天音利華さん。貴方は息子である天音海斗さんへの虐待、一ノ瀬沖嗣さんからの海斗さんへの補助の・・・殆どを・・・私的に・・・利用した・・・・事により、親権を委譲していただきます」

「え?」


 虐待に関しては実際されたので理解出来る。しかし、その後の言葉は全く理解出来なかった。

 呆然とした表情で沖嗣を見つめるが、彼は視線を利華へと向けたままだ。

 そして利華はというと、静音が置いた紙束へと目を向けて絶句している。

 おそらく、静音の言葉を証明する内容が書いてあるのだろう。


「お前には海斗を養えるだけの十分なお金を渡したはずだ。決してあんなアパートに住まわせる必要のない程のな。しかし、こうなった以上は見ていられない」

「それ、は……」

「報いを受けろ、天音利華。お前は私と同じ、親失格の最低最悪な人間だ」


 沖嗣の言葉に、整った顔を青くする利華だった。

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