第124話 一時の休息
ほんの数時間でも精神的にかなり疲れていたようで、凪に撫でられながらうたた寝をしてしまった。
その後は起こされて晩飯を摂り、彼女の家に帰って寛いでいる。
念の為に家事を済ませていたので、風呂が沸くまで特にする事がない。
それはいいのだが、何故か海斗は凪に膝枕されていた。
「……えっと、何で膝枕ですか?」
「海斗を癒すため。今日はもう何もしなくていいよ」
「いやまあ、そうさせてもらうつもりですけど」
西園寺家から帰ってきた時もそうだが、何かある度に凪に膝枕されている気がする。
嫌どころか嬉しいのだが、あまり動じなくなっており、慣れてきているのが怖い。
とはいえ、偶に凪に抱き締められながら寝ている時点で、慣れるのも仕方ないとは思う。
それでも穏やかな気持ちになるのは以前と変わらないし、余計な力が抜けた分、かなり癒されるのだが。
「じゃあお風呂が沸くまで、海斗は膝枕される事。めいれい」
「分かりましたよ」
可愛らしい命令を断る気もなく、細い指先が髪を撫でるのを受け入れた。
いつもより海斗を労っている気がする指使いが心地良い。
「大変、だったよね。まさか美桜が妹だなんて」
「ですね。それに、まさか俺が一ノ瀬家の一員になるなんて、思いませんでしたよ」
今まで見て来た世界がひっくり返るような、衝撃の事実だった。
知らされた時は頭が真っ白になっていたし、結局甘えるしかなかった無力感が未だに心に燻っている。
それでも数時間前を思い出してくすりと小さな笑いを落とせば、凪が心配そうな表情で海斗を見下ろした。
「辛いよね? 苦しかったよね?」
「それなんですが、今は意外とすっきりしてるんですよ」
凪の手や温もり、優しさに満ちた言葉があるお陰で、海斗の心は平穏に近くなっている。
美桜の言葉を切っ掛けに沖嗣とドライな関係を築けたのもあるが、一番の要因は凪だ。
だからこそ、彼女には自分のせいで海斗が苦しむと思って欲しくない。
辛くはあったが、海斗は自らの選択を後悔していないのだから。
「なので、謝罪は必要ありませんからね。俺が、俺の意思でやると決めたんですから」
「う……。そんなの、ずるい」
不満たっぷりの表情を浮かべ、凪が海斗の頬を摘まんだ。
加減はしてくれており、全く痛くないので好きにさせる。
「そんな事ありませんって。むしろ、こうして甘えてる方がずるですよ」
「全然ずるじゃない。もっと甘えて」
全てを受け入れるかのような慈愛の笑みを浮かべる凪が、海斗の頭をかき抱いた。
凪の部屋着に包まれて、甘い匂いが濃く香る。
海斗を今まで以上に落ち着かせる匂いに、つい彼女の背中に手を回して身を寄せた。
「ぎゅー、だよ。本当に、お疲れ様」
「……はい」
「明日が残ってるけど、今日は全部忘れて休んでね」
「まあ、明日は何とかなると思いますがね。俺があいつと縁を切るだけですし」
海斗が『天音』ではなく『一ノ瀬』になる事については、あまり不安に思っていない。
利華はあれほど海斗を役立たずだと憎んでいたのだ。自分の手から離れていく事に、むしろ感謝するだろう。
とはいえ、懸念している事も確かにある。
凪も同じ考えに辿り着いたのかお腹から海斗を離し、曇った顔で海斗を覗き込んだ。
「でも、海斗だけ一ノ瀬家の恩恵を得られるんだから、沢山文句を言われると思う」
「暴言程度なら言われ慣れてますって。それに、あいつが一ノ瀬家の恩恵を得られなかったのは自業自得ですし」
今現在でも男と遊び惚けており、以前は沖嗣を利用しようとした事から察するに、利華の性格の悪さは昔からだ。
ならば利華を気の毒に思う必要はないし、むしろ馬鹿にしたくなってしまう。
流石にそれは性格が悪過ぎるので、利華からの悪意を受け止める程度になるだろうが。
気にする事はないと微笑みを落とすと、凪の両手が海斗の頬を挟み込んだ。
「にゃ、
「海斗のお母さんが自業自得なのは当然。だけど、暴言を言われてもいいって自分で思うのはダメ」
「…………ひゃい」
アイスブルーの瞳が全く笑っていないので、頷かないとどうなるか分からない。
彼女の圧に負けて小さく首を縦に振れば、海斗の頬から両手が離れた。
「ならよし。でも、少しでも自分を卑下したからおしおき」
「いや、卑下っていうか、これは――」
「返事は?」
「ハイ」
単に耐えられるという話をしたかっただけなのだが、あっさりと黙らされてしまう。
こうなったら凪の好きにさせようと諦めの境地で従うと、ちょうど風呂場から電子音が鳴り響いた。
海斗を起き上がらせた凪が、風呂場を指差す。
「取り敢えずお風呂。その後はすぐにベッド」
「了解です」
短い言葉にやりたい事を察し、すぐに風呂場へ向かう。
風呂を終えていつも通り髪を乾かしてもらった後は、凪が風呂に入った。
湯上りで色っぽい凪の髪を乾かし、寝る準備を終えてベッドへと上がる。
「えい」
「はい!?」
何をするのかと身構えていると、凪が可愛らしい掛け声と共に海斗を押し倒した。
戸惑っている間に彼女が布団を頭に被って、海斗の腹へと腰を乗せる。
服越しなのであまり感触は分からないが、それでもこの状況は危険過ぎるのではないか。
「な、凪さん、何をするつもりですか?」
「何って、こういう事」
細い腕が海斗の頭の左右に置かれ、身動きが取れなくなる。
あっという間に美しい顔が間近に迫り、心臓が拍動のペースを速めた。
「あ、あのですね。こういう事はもう少し後で――」
「うるさい。黙って」
海斗の反論をぴしゃりと封じた凪が更に近付く。
既にお互いの吐息が顔に掛かる距離であり、吸い込まれそうな程に綺麗なアイスブルーの瞳が海斗をジッと見つめている。
これ以上凪を見ていられなくて目を瞑り、来るであろう甘く柔らかいものに備えた。
「ん……」
「……え?」
訪れた衝撃は、額にだった。
あまりにも意外過ぎて瞼を開ければ、慈愛の表情をしている凪で視界が埋め尽くされている。
「今日は私に愛されてるってのをたっぷり思い知ってもらう。二度と自分を卑下出来ないように」
「まさか……」
「そう。時間はたっぷりあるから、覚悟してね」
艶っぽい笑みを浮かべた凪が、今度は海斗の首元に顔を寄せた。
柔らかい感触がした後に軽いリップ音が響き、凪が頭を離す。
その次は海斗の腕を取り、手の甲に唇を這わせた。
愛おし気に目を細めて頬を紅潮させる姿は、男を誘惑する魔性の女そのものだろう。
(落ち着け、今日は駄目だ。抑えるんだ)
凪としては愛情表現の一つなのだろうが、残念ながら理性に悪過ぎて下半身が反応してしまった。
まだ正式な許嫁にはなっていないので、流石にここで手を出す訳にはいかない。
唯一の救いは、彼女は海斗の腹に腰を下ろしているので、当たっていない事だろう。
それでも海斗と顔が近付く度に、気付かれていないか冷や冷やするのだが。
同時に腕や肩、額に耳に頬と、あらゆる所に唇を付けられて、ぞくぞくとしたものが背筋を這い上がった。
「ん……。かい、と……」
どう見ても誘っている姿に、これからは余計な事は言うまいと決意する。
それはそれとして、天国であり地獄でもある状況に理性を固く縛るのだった。
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