第122話 誰にも言えなかった想い

「美桜」


 喫茶店を出て、凪にとって一番の友人の姿を探す。

 すぐに後を追ったからか、茶色の髪を靡かせる姿はあっさりと見つかった。

 小走りで追いかければ、美桜がゆっくりと振り返る。

 可愛らしい顔立ちには、感情の読めない微笑が浮かんでいた。


「海斗の傍に居なくていいんですか?」

「海斗は大丈夫。それに、仮に一人で考えて苦しんでも後で癒す」


 凪を喫茶店から送り出した時の海斗の穏やかな表情からして、自らを卑下して落ち込む事はないだろう。

 抱え込みがちな海斗だが、それくらいは凪にも分かる。

 万が一の事が起きても大丈夫だと微笑みを落とせば、美桜の顔に羨望の色が宿った。


「……ホント、信頼してますねぇ」

「海斗とはずっと一緒に居るし、沢山話したから」

「なら海斗はいいとして、どうして私を追いかけたんですか?」

「美桜とも話をしなきゃと思って」


 海斗が一ノ瀬家の者だった事で、一番衝撃を受けたのが彼なのは間違いない。

 だが、他にも衝撃を受けた人は居るのだ。今ではなくとも、昔に。

 それは先程海斗と美桜が昔を懐かしんだ時の、嬉しさの中に痛みを隠した表情から分かっている。

 しかし美桜は先程の事など忘れたかのように、きょとんと首を傾げた。


「私ですか? もしかして、まだ隠し事があるって疑われてます?」

「一応、疑ってはいる。だから美桜とは一度腹を割って話そうと思ってたの」

「えぇ……。私って信用ないなぁ……」


 凪の言い方が悪かったようで、美桜の顔に苦笑が浮かぶ。

 自らの会話の下手さに呆れつつも、大きく首を振った。


「そうじゃない。信用しているからこそ、そして同じ人を好きになった・・・・・・・・からこそ、美桜ときちんと話したかった」

「――」


 凪の言葉に、美桜の顔から表情が抜け落ちる。

 彼女と会ったのは、まだ凪が海斗への好意を自覚する前だった。

 そして好意を自覚した後、ふと美桜の姿が頭に浮かんだのだ。


(美桜の海斗への態度は、友人に見えるだけだった)


 ある意味では凪よりも海斗と親しく接し、それでいて友人としての立場に収まっている異性。そんなもの、普通の関係ではない。

 海斗は美桜の事を一番の友人として扱っていたようだが、同じ女性として、同じ男性に恋慕している者として美桜は違うと思った。

 あれは、恋愛感情を隠している女性の姿だ。恋心を自覚した凪には、それが良く分かる。

 抜け駆けするようで申し訳なかったが、美桜から応援されていた事もあり、海斗との関係は遠慮なく進ませてもらった。

 代わりに、いつか何も隠さずに話そうと思ったのだ。

 残念ながら、こんな形になってしまったが。


「そうでしょ? 美桜」

「な、何を言ってるんですか凪ちゃん先輩!? 私は海斗の妹ですよ? そんな事が許される訳が――」

「そう、美桜が海斗と付き合うのは許されなかった。だから友人の立場に居ようと思った。違う?」


 血が繋がっているがゆえに恋人になる事は許されず、家庭事情的にまともな兄妹になる事も出来ない。

 しかし離れたくもなかった美桜は、たった一つだけ残された立場にすがったのだ。

 的外れならば簡単に流されただろうに、今回ばかりは変に焦っているのが、それを証明している。

 もう隠さなくていいと遠回しに告げれば、美桜の顔が泣きそうに歪んだ。


「…………正解、ですよ。でも、凪ちゃん先輩には関係のない話では?」

「関係ある。美桜は私の一番の友人だし、恋敵。だから、私は美桜の本音を聞かなきゃならない。それが例え、どんなに私を責めるものであっても」


 海斗にすら伝えられない、むしろ海斗にだけは伝えたくない、美桜の本音。

 それを聞くべき人は、凪以外に居ないだろう。

 覚悟は決めてあると真っ直ぐに告げれば、美桜が顔を俯けた。


「面白い話じゃ、ありませんよ」

「分かってる」

「凪ちゃん先輩に、いっぱい文句言いますよ」

「それも、分かってる」

「凪ちゃん先輩は――凪さんは、優しいですねぇ……」


 兄である人と同じ凪の呼び方をしつつ、美桜がゆっくりと歩き出す。

 道端で向かい合って話すのは気まずいからだろう。

 なので美桜の隣に並び、彼女の言葉に耳を傾ける。


「初めて話した時は、そりゃあもう滅茶苦茶警戒しましたよ。クラスメイトの愚痴を言っているのを、他でもないクラスメイトに知られたんですから」

「さっき言ってたね」

「はい。でも海斗は誰にも話さず、それどころか放課後私の愚痴を聞いてくれるようになったんです」


 それは喫茶店でも聞いた、海斗と美桜の始まりだ。

 余程大切な思い出なのだろう。美桜の横顔は溢れんばかりの歓喜で彩られている。


「まあ、私が居る校舎裏に来て隣に座ってるだけでしたけどね。『話したかったら勝手に話せ』って事です」

「海斗らしいね」

「でしょう? あの時は家を追い出されて自分の事で精一杯だったはずなのに、それでも私を気遣ってくれたんですよ」


 決して強引に踏み込まず、話してくれるのを待つ。

 おそらく荒んでいた頃だというのに、海斗の持つ優しさは今と全く変わらなかったらしい。

 そんな海斗の姿を容易に想像出来て、二人してくすりと笑みを零した。


「初めてでした。私に擦り寄って来ず、私をもてはやさず、愚痴を言うありのままの私を受け入れてくれる人は」

「そんなの、好きになっちゃうよね」

「ですよねぇ。話し始めてたった二週間で、私は海斗を好きになっちゃいました」


 あはは、と乾いた笑いが閑静な住宅街に響き渡る。

 凪とて海斗にありのままの姿を受け入れてもらった時は、物凄く嬉しかった。

 おそらく、あの時に凪は海斗への好意を抱いたのだろう。

 残念ながら、それを自覚するまで時間が掛かり過ぎてしまったのだが。


「自覚してからすぐに、私は両親に海斗の事を話したんですよ。異性ですし、当然名前も聞かれたんですよね。そして――」

「そして、全てを知ってしまった」

「……はい。すぐに両親から全部話されて、恋人になれないと分かって、絶望しました」


 全く家と関わりのない人だったはずなのに、実はその人と半分だけ血が繋がっている兄妹だった。

 その際の衝撃は、美桜が軽い調子で話した「絶望」すら生温いものだったに違いない。

 何と言葉を返せばいいか分からず黙り込むが、美桜は特に気にせず言葉を紡ぐ。


「でも、海斗から離れたくもなかった。だから、私は友人の立場に縋ったんです。そうすれば、海斗の傍に居られますから」

「辛く、なかったの?」

「そりゃあ辛かったですよ。私が妹だと悟られては駄目。でも、恋人になっても駄目。友人として許されるギリギリの距離を保つ毎日です」


 求める物は絶対に手に入らない。それを理解しつつも海斗の傍に居るのは、凪には想像も出来ない程に苦痛だったのだろう。

 その結果が、想いを繋げた凪すらも嫉妬する程の気安い関係だった。

 美桜の凄まじい努力の成果を知った以上、嫉妬の感情はもう沸き上がらない。


「でも、幸せだったんですよねぇ。…………海斗が、貴女のお世話係になるまでは」


 美桜が今まで聞いた事のない低い声を漏らし、凪へと視線を向けた。

 ブラウンの瞳は、今にも爆発しそうな程の憎悪と嫉妬に彩られている。

 突然の悪意にぴくりと体を震わせると、美桜は唇の端を釣り上げて視線を逸らした。

 そして偶々なのか狙っていたのか、辿り着いた人気のない公園へと入っていく。


「どんどん海斗が喫茶店に来る頻度が減って、話せなくなる。なのに、海斗は今までよりも充実してるような表情になっていく。正直に言うと、全部ぶっ壊してやろうかと思った時もあります」

「それは、仕方ない、よ。だって、美桜にとって私は敵、だもの」


 必死に友人としての関係を築いていたのに、突然それ以上の関係を持つ人が現れたのだ。

 恋敵どころか宿敵、仇敵と言っても過言ではない。

 変に明るい声で話されて背筋が震えてしまうが、これは凪が受け止めなければと、美桜から視線を逸らさないようにする。


「しかも、その相手は私と似たような立場を持つ人だった。初対面の時は、感情を抑える為に必死でしたよ」

「家が同じように裕福で、学校では似たような立場、だもんね」

「まあ、全部が同じって訳じゃないんですが、それはそれ、これはこれ、というやつです」


 ほぼ似たような立場なのに、血が繋がっているだけで欲しい人が得られなくなる。

 そんなもの、簡単に納得出来るようなものではない。

 だからこそ、凪の頭に疑問が浮かぶ。


「じゃあ、何で私と仲良くしてくれたの?」

「そりゃあ凪さんが良い人過ぎたからですよ。性格が悪かったら、どれだけ良かったか」


 目は笑っていないが、それでも美桜はいつも通りに軽い笑みを零した。

 どうやら凪は美桜の中で敵対出来ない人、という枠組みに入っていたらしい。

 その結果、余計に美桜が傷付く事になってしまった。


「それは嬉しいけど、まだまだ私に言い足りないんでしょ? いいよ、美桜」

「…………じゃあ、失礼しますね」


 美桜が足を止め、公園の端で向き合う。

 がしりと肩を掴まれ、思い切り力を込められた。

 痛みで顔が引き攣るが、美桜が受けた心の痛みに比べたら軽いはずだ。

 至近距離にある美桜の顔を見上げれば、可愛らしい顔立ちが憤怒と憎悪、そして悲嘆に彩られているのが見える。


「どう、して…………。どうして凪さんなんですか! どうして私じゃないんですか!」

「そう、だよね」

「私の方が先に好きだったのに! 何も出来ずに奪われたんですよ! 半分血が繋がっているというだけで!」

「どうしようも、ないよね」


 決して誰にも話せなかった、美桜の抱えていた想い。

 友人から負の感情をぶつけられるのは覚悟していても怖いが、それでも目を逸らさない。

 既に覚悟は決めていたし、何よりも美桜が泣きそうに瞳を潤ませているのだから。


「だったら、知り合う前に教えてくださいよ! どうして好きになってから教えるんですか!」

「理不尽、だよね」

「ずっと『天音』で居て欲しかった! それなら、私は海斗の友達で居られた!」

「私が、壊しちゃったよね」

「どうして私がこんな目に遭うんですか! ただ好きな人と恋人になりたい、それだけだったのに……!」


 脈絡のない言葉をただひたすらに受け入れる。

 様々な感情を帯びていた瞳からは、涙が零れ落ちていた。


「私は……。私、は……!」


 もう言葉にならないのか、美桜が項垂れて嗚咽を漏らす。

 一番の望みを諦めるしかなかった恋敵の頭を、そっと抱き締めた。


「こんな事を言うのは違うかもしれない。でも、私は美桜と知り合えて良かった。ありがとう、美桜」

「凪、さん……。うわあぁぁぁん!」


 失恋した少女の慟哭どうこくが、冬の公園に響き渡る。

 美桜が楽になるのなら、好きなだけ泣いて欲しい。

 そう思いながら、ずっと彼女の頭を撫で続けていたのだった。





「もういいの?」


 美桜はそれほど時間を掛ける事なく、凪から体を離した。

 心配になって尋ねれば、彼女は力の抜けた笑みを零す。


「はい。全部話して、すっきりしました。ありがとうございます、凪ちゃん先輩」

「お礼なんかいい。むしろ、私は美桜に――」

「謝ったら許しませんから」


 鋭い言葉に謝罪を遮られ、驚きに目を見開く。

 泣き腫らした顔には、静かな怒りが灯っていた。


「勝者は勝ち誇ってください。それが、敗者に対してやるべき事です」

「……分かった」


 美桜がそれで納得出来るというなら、何も言うまい。

 小さく頷けば、彼女がいつも通りの明るい笑みを浮かべる。


「私はちょっと休憩してから戻りますので、お気になさらず」

「ん」


 凪に全て話したとはいえ、気持ちの整理をつけたいのだろう。

 ならば凪がここに居ては迷惑だと、すぐにきびすを返す。

 しかし、背中に「凪ちゃん先輩」という不安の込められた声が届いて振り返った。


「どうしたの?」

「その……。私達って、まだ友達、ですか?」

「そんなの当たり前。美桜は今までもこれからも、私の一番の友達」


 凪が美桜にとって憎い恋敵であっても、友人の立場は揺るがない。

 むしろ、昔以上に仲良くなれる気がする。

 迷いなく答えれば、美桜の顔が嬉しさと悲しさを混ぜ込んだ表情になった。

 これ以上見てはいけない気がして、今度こそ美桜に背を向ける。


「またね、美桜」

「…………はい」


 小さく聞こえてくるすすり泣きをあえて無視し、凪は公園を後にするのだった。

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