第110話 西園寺家へ
「ふぅ……」
一年の終わりである十二月三十一日の夕方。海斗は凪と共に西園寺家へと歩きつつ、細く息を吐き出した。
肩に力が入っているのが分かるようで、凪が気遣わし気に海斗を見上げる。
「緊張しなくていいんだよ?」
「いや、緊張するに決まってますって」
数度会っているとはいえ、相手は凪の両親や妹だ。
凪とこれから一緒に過ごしていく上で、彼等の中で海斗の印象は良いものであるべきだろう。
既に信用が地に落ちているとは流石に思っていないが、粗相をしないように気を付けなければ。
下手をすると、凪との今の生活すら無くなってしまうのだから。
肩を竦めて眉を下げれば、彼女が若干の呆れを顔に滲ませる。
「クリスマスパーティーの時はそんなに緊張しなかったのに、どうしたの?」
「あの時の俺はあくまで凪さんのサポートでしたからね。今は状況が違いますよ」
前回は凪に一緒に居て欲しいと言われたから参加したのであって、海斗は第三者の立ち位置だった。
極端な事を言うなら、西園寺家にとって異物である海斗があの場に居るべきではなかったのだろう。
それが許されたのは、凪の願いと西園寺家の人達が優しかっただけだ。
今回は招かれた客人の立場になっているのだから、粗相が出来ないのと合わさってかなりのプレッシャーを感じる。
しかしあまり納得が出来ないのか、凪が僅かに唇を尖らせた。
「そんなに変わんないと思うけど……」
「それが変わるんですよ。凪さんこそ、博之さん達と会話するのが怖くないんですか?」
「うん? それは大丈夫。海斗のお陰で仲良くなれたから」
「……さいですか」
今まできちんと尋ねて来なかったが、どうやら海斗の心配は無用だったらしい。
いきなりの褒め言葉と満面の笑みが心臓に悪く、羞恥が頬を炙った。
とはいえ、緊張しているのが海斗だけだと分かって肩を落とせば、凪が細い腕を持ち上げて人差し指を伸ばす。
「あれが私の実家だよ」
「ついに来てしまった……」
覚悟を決めて凪の指の先を見つめると、そこにはいかにもな高級感溢れる一軒家があった。
海斗が昔母親と一緒に昔住んでいたこじんまりしたアパートや、今住んでいるボロアパートなど比べ物にならない。
(……屋敷とかじゃないだけマシ、かなぁ)
海斗の想像を超える家を目にせずに済んで、安堵に胸を撫で下ろす。
とはいえ、近付くにつれて広々とした庭や、真っ白で手入れの行き届いている家の壁が嫌でも目に付いてしまう。
ガレージのような車庫もあり、扉が閉まっているので何が入っているか分からないが、おそらく高級車だろう。
怖気づいて止まりそうになる足を必死に動かし、ついに西園寺家へ到着した。
凪が海斗の前に出て、キーケースを取り出してあっさりと扉を開ける。
「ただいま」
「お、お邪魔します」
「おかえりなさい、凪。それにいらっしゃい、海斗くん」
あまりにも綺麗な玄関に声を響かせれば、奥から穏やかな声が聞こえた。
声の方を向くと、桃花がこちらへと歩いて来ている。
高級感溢れる家に反していかにも主婦ですといった雰囲気は、どうにも違和感があった。
「さあさあ、二人共上がって。今は渚と一緒にご飯の準備をしてるから、ゆっくり寛いでちょうだいね」
「お父さんは?」
「博之さんは急な案件が入ったみたいで、部屋で缶詰してるわぁ。晩御飯には間に合わせるって言ってたから、気にしないでね」
年末まで働かなければいけないのは相当に苦痛だと思うのだが、やはりというかかなり忙しい人なのだろう。
とはいえそれも慣れているのか、桃花はのほほんとした笑みを浮かべている。
「分かった。じゃあ荷物を置くから、海斗はこっち」
「はい」
凪に先導され、二階に上がる。桃花はというと、特に何も言わず海斗の後をついてきた。
すぐに一つの扉へ辿り着き、慣れた手つきで凪がドアノブを捻る。
中へと入れば、そこはベッドと机があるだけのシンプルな部屋だった。
客間にしては家具があるのがおかしいし、いつも嗅いでいる桃のような甘い匂いが僅かに香る。
「今日はここに泊まってもらうから、荷物もここに置いて」
「あの、もしかして、ここって凪さんの部屋ですか?」
「そう。必要なものはあっちに運んだから、寝る事しか出来ないけど」
「……この部屋に俺が泊まるのはダメなのでは?」
ここが凪の部屋という事は、彼女もここで寝るという事だ。
つまり、海斗と凪は同じ部屋で寝泊まりする。
親として許可出来ないのではと桃花の様子を窺うが、彼女はにこにことご機嫌な笑みを浮かべていた。
「大丈夫よぉ。冬休みの間は一緒のベッドで寝てるんでしょう? 離れたら寂しいわよね」
「…………何で知ってるんですか?」
清二から桃花や博之に話が行くのは当然だが、詳細を知られているとは思わなかった。
頬をひくつかせて質問すると、桃花が一児の母とは思えないくらいにはしゃぎだす。
「海斗くんが凪の家に泊まってるとしか聞いてなかったけど、大当たりだったみたいね!」
「……」
いかにも普通の母ですよ、といった雰囲気の桃花だが、いくつもの会社を持っている博之の妻なのだ。
頭の回転が悪いはずがないのに、つい忘れてしまっていた。
かまを掛けられて絶句する海斗をよそに、ころころと楽しそうに桃花が笑う。
「そんな年頃の男女の邪魔をするのは無粋よ。私は二人の味方だからね!」
「いや、まあ、その、ありがとう、ございます」
「ん。ありがとう、お母さん」
あれこれ言われなかったのは非常に有難いが、どうにも素直に受け取れない。
引き攣った笑みで感謝を伝えた海斗とは反対に、凪は小さく微笑していた。
「さてと。ここでのんびりしていてもいいけど、二人はどうするのかしら?」
「んー。海斗に任せる」
「ならリビングに行かせてください。渚にも挨拶したいですし」
「分かったわ」
渚の性格なら部屋に居ても顔を見せてくれるかもしれないが、ここは海斗から挨拶に行くべきだろう。
今度は桃花に先導され、一階へ降りてリビングへ。
部屋の中に入ると、キッチンの方から小さな頭が出て来た。
「おかえりなさい、凪お姉様! いらっしゃいませ、海斗お兄様!」
子供特有の高く元気な声を響かせ、渚が
姉妹の間に既に溝などないからか、凪は優しい笑みを渚へ向けた。
「ただいま、渚」
「すぐに挨拶に行けず、申し訳ありません。お二人共、今日はゆっくりしていってくださいね!」
「渚もゆっくりしなさい。後は私がやっておくわ」
もう料理の下拵えは一人で出来る所まで来ていたのか、桃花が渚にも休むように促した。
先程まで手伝っていた事で状況を把握していたらしく、渚は嬉しそうにはにかむ。
「ありがとうございます、お母様! えっと、お姉様達は部屋に行くのですか?」
「リビングに居ようと思うけど、いいかな?」
ちらりと凪が海斗を見て判断を委ねたので、折角ならここで寛ぐと宣言した。
遠回しに渚はどうするのかと尋ねると、彼女は年相応の無邪気な笑みを見せる。
「なら、晩御飯まで三人で遊びませんか?」
「俺はいいよ。凪さんはどうしますか?」
「私も構わない」
「ありがとうございます!」
今までの話を聞く限り、姉妹で遊ぶ事などなかったのだろう。
海斗と凪が頷いた事で、渚の顔が歓喜に彩られた。
今日は渚のテンションが高いが、喫茶店での姿は多少猫を被っていたのかもしれない。
とはいえそれを悪だとは思わないし、はしゃいでいる姿も可愛らしい。
「随分賑やかになりそうだなぁ」
西園寺家に来る前の緊張はいつの間にか吹き飛んでおり、力の抜けた笑みを零す海斗だった。
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