第108話 年末年始のお誘い

「う、ん……」


 腕の中の温かいものがもぞりと動く。

 ゆっくり意識を浮上させれば、海斗の腕の中に凪が収まっていた。


「やっぱり、起きる時はこの体勢なんだな」


 寝る前から凪を抱き締めていたが、それから全く体勢が変わっていない。

 彼女としては海斗を甘やかしたい思いもあるのだろうが、本能的に何かに抱き着きながら寝たいのだろう。

 その相手が海斗ならば喜んでだし、誰にも譲りたくないとすら思う。


「時間は――まだ朝か」


 時計を確認し、肩の力を抜く。

 健康的な生活を送りたい人ならば起きる時間だが、生憎海斗は惰眠を貪る派だ。

 今日は今年最後のバイトが入っているものの、まだまだ身支度をする時間ではない。

 とはいえ折角起きたのだからと、凪の美しい銀髪をやんわりと撫でて感触を楽しむ。


「……んぅ?」

「すみません、起こしちゃいましたか?」


 眠りが浅かったのか、凪がすぐに目を開けた。

 とろみを帯びたアイスブルーの瞳は、吸い込まれそうな程に美しい。

 余計な事をしたかと心配したのだが、凪はふにゃりと緩みきった笑みを浮かべて首を振る。


「だい、じょぶ。きもちいい、から」

「ならもっと撫でていいですか?」

「いいよぉ……」


 間延びした声を漏らし、凪が海斗の胸に顔を埋めた。

 ぐりぐりと頭を押し付けられる感触がくすぐったく、海斗の唇が弧を描く。


「まだ朝ですし、二度寝しますか?」

「そーするぅ。かいとも、ね?」

「はい」


 魅力的なお誘いを受け入れ、華奢な体を緩く抱き締めた。

 凪はあっさりと眠りについたらしく、規則正しい寝息が聞こえてきている。


「贅沢な二度寝だなぁ」


 ふかふかの布団に最高の抱き枕があるのだ。こんな二度寝を海斗が経験していいのかと思う程に素晴らしい。

 とはいえ夢などでは決してなく、腕の中の温もりが現実だと伝えてくる。

 胸を満たす幸福感に溺れながら、海斗も目を閉じるのだった。





「家に居て良かったんですよ?」


 お昼時というには遅く、夕方というには早い時間。海斗は喫茶店に向かいながら、隣を歩く女性へと声を掛けた。

 銀色の髪を冷たい風になびかせている凪は、ゆっくりと首を横に振る。


「どうせ家に居ても暇だし、本を読みながら海斗のバイトしてる所を見てる」

「まあ、凪さんがそれでいいなら」


 凪と二度寝して昼前に目が覚め、朝食兼昼食を摂った後、バイトに行こうとした海斗に彼女が付いてきたのだ。

 その際は理由を言ってくれなかったが、どうやら暇潰しをしたいらしい。

 海斗の勝手な予想だが、バイトとはいえ離れるのを惜しんでいる気がする。

 緩みそうになる頬を抑えて苦笑を浮かべて歩いていると、喫茶店に着いた。

 カランと乾いた音を響かせて中に入れば、背筋をぴんと伸ばした老人が海斗達を迎える。

 柔和な笑みを浮かべた清二は、海斗の後に続いて入ってきた凪に一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を戻した。


「こんにちは、海斗くん。それと、凪ちゃんも」

「こんにちは」

「こんにちは、清二さん。……こう言うのも何ですが、やっぱり人が居ませんね」

「もう年末も近いからねぇ。それにこの時間だし、店に来る人は居ないよ」


 客が居ないので店員モードになっていない清二と、店を営業する側とはとても思えない会話をする。

 海斗としては気楽でいいのだが、相変わらず儲ける事に関して気にしていないらしい。


「にしても、凪ちゃんが来るなんてどういう風の吹き回しだい?」

「そういう気分なんです」

「了解だよ。それじゃあ凪ちゃんの相手は海斗くんに任せようかな」

「分かりました。ちょっと待っててくださいね、凪さん」

「ん」


 短く頷いた凪を残し、清二と共に裏へと引っ込む。

 凪との短い会話でも彼女の本音を読み取れたようで、清二が生温かい笑みを浮かべた。


「いやぁ、凪ちゃんがここまで海斗くんと離れたくないなんてねぇ」

「やっぱりそう思いますか?」

「むしろそれ以外に考えられないよ。さ、早く行ってあげなさい」

「はい」


 バイトに入る以上、凪へは一人の客として接する事になる。

 それでも、なるべく傍に居た方が彼女は喜ぶだろう。

 急いで更衣室に入り、制服に着替えて凪の元へ向かった。

 美しい姿勢で本を読んでいた凪へと声を掛ける。


「ご注文はいかがいたしましょうか」

「うーん。じゃあココアで」

「かしこまりました」


 厨房へ入り、すぐにココアを準備してから凪の前に置いた。

 そのまま二人しか居ない喫茶店で特に会話せずのんびりしていると、凪が少しだけ不満そうな顔で海斗を見上げる。


「……何か、いつもと変わんない気がする」

「そりゃあ俺達以外に誰もいないので気楽にしてますし、バイトの制服を見られるのも初めてじゃないですからね」


 そもそも海斗は常連が居てもあまり気を張る事はないし、クリスマスパーティーの際に凪は海斗の働く際の姿を見ているのだ。

 家に居る時と空気が殆ど変わらず、新鮮味がないのは仕方がないだろう。

 期待に応えられないのは申し訳ないが、今更畏まるのもおかしな話だ。

 肩を竦めて苦笑すれば、凪がむすっと唇を尖らせる。


「む、ざんねん」

「……無理して店に居る必要はないんですよ?」

「無理なんかしてない。ここに居るのは私の意思だから、海斗が気にしちゃダメ」


 遠回しに楽しくなければ帰るか、と提案すれば、凪が勢いよく首を振った。

 凪が勝手に来て期待しただけであって、海斗は何も悪くない。

 そんな凪の相変わらずの優しさに、胸の中に渦巻いていた罪悪感が消えていく。


「ありがとうございます、凪さん」

「お礼を言うのは私の方。ありがとう、海斗」


 海斗は単にバイトをしているだけで、凪には何もしていない。

 しかしここで感謝を拒絶すれば、堂々巡りになってしまう。

 微笑を浮かべて受け入れ、静かな喫茶店でゆったりとした時間を過ごすのだった。





 今年最後のバイトは、凪や晩飯時に来た僅かな常連客の対応をしているうちに、あっさりと終わった。

 更衣室で私服に着替えて店に戻ると、既に店内は凪と清二だけになっていた。 


「さてと。この約九ヶ月間、本当にお疲れ様。来年もよろしくね」

「はい。色々と、本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いします」


 九ヶ月間の感謝を込め、深く頭を下げる。

 四月にボロアパートに叩き込まれた時からは想像できない程に、海斗は豊かな生活を送れるようになった。

 ゆっくりと顔を上げれば、皺の多い頬が柔らかく綻んでいるのが見える。


「僕の方こそ感謝したいくらいだよ。それと、海斗くんの不安を煽るようで申し訳ないが、日程が決まった」

「…………いつ、ですか?」


 海斗自身ですら知らない、海斗の隠された真実。それを知る日が伝えられると分かり、体に力が入った。

 おそるおそる尋ねれば、清二が真剣な顔で口を開く。


「三が日が明けた一月四日だ。何か予定を入れてるかい?」

「いえ、大丈夫です」

「なら、今はゆっくりしてくれ。その日は辛い思いをすると思うけど、頑張るんだよ」

「はい」


 恩人からの励ましに、強張った体から少しだけ力が抜けた。

 大きく頷くと、清二が柔和な笑みへと表情を変える。


「まあ、その前に海斗くんはある意味大変な思いをするだろうけどね」

「えっと、それはどういう……?」

「内容は僕じゃなくて、凪ちゃんから聞くべきかな」


 唐突に凪の名前が挙がり、彼女の方を向く。

 いきなり話題を振られた凪はぴくりと体を震わせた後、不安げな表情で海斗を見つめた。


「その、海斗は年末年始、予定ある?」

「特にありませんが、それが?」

「…………なら私と一緒に、西園寺の家で過ごさない?」

「えっと……」


 バイトをしている時に凪がスマホを見たタイミングがあったが、その時に西園寺家の誰かから誘いが来たのだろう。

 西園寺の家、とわざわざ言ったという事は、当然ながらそこで凪の親である博之や桃花、そして妹の渚と過ごす事になる。

 そしてわだかまりが解けたとはいえ、凪は今まで家族と溝があったのだ。

 年末年始を楽しく過ごせるのか心配で、海斗を誘ったに違いない。

 ただ、海斗が西園寺の人達と顔見知りだとはいえ、それでも家族の輪に海斗という他人が入ってもいいのか分からない。

 迷う海斗へと、凪が焦ったような表情を向けた。


「海斗やお父さん達と一緒に年越しをしたいなって。ダメ、かな?」

「博之さん達は俺が来る事に賛成してるんですか?」

「うん。むしろ、是非来て欲しいって」

「…………なら、よろしくお願いします」


 断る事も考えたが、その場合海斗はあのボロアパートで年を越す事になる。

 流石にそれは寂し過ぎて、断れなかった。

 海斗が頷いた事で、凪がふわりと花が綻ぶような笑みを見せる。


「それじゃあいっぱい楽しもうね、海斗」

「はい」

「ふむ、意外とあっさり決まったね。楽しんでくるんだよ、二人共」

「清二さんはどうするんですか?」

「僕はここでのんびりと過ごすよ。そうしたい気分なんだ」


 折角ならば清二もと思ったが、本人が既にどうするか決めているのなら仕方がない。

 やんわりと断わられ、素直に引き下がる。


「分かりました。なら、次は年明けですね。良いお年を」

「清二さん、良いお年を」

「ああ。二人も良いお年を」


 短くお決まりの挨拶を済ませ、喫茶店を後にするのだった。

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