第107話 互いの匂い

 凪は膝枕されるのを気に入ったらしく、海斗の膝から頭を離す素振りが全くない。

 けれども全く嫌ではなく、心地良さそうに頬を緩める凪の頭を撫で続けていると、彼女が大きな欠伸を零す。


「ふわぁ……」

「眠くなっちゃいましたか?」

「ん。海斗の手が気持ち良くて、もう少しで寝る所だった」

「それじゃあちょっと早いですが、寝ましょうか」


 時計を見れば以前泊まった時よりは遅く、けれどもまだ日付が変わっていない時間だった。

 とはいえ起きなければならない理由などないし、眠い時には無理せず寝るべきだろう。

 ぽんぽんと軽く凪の頭を叩いて寝る準備を促せば、渋々といった風に彼女が体を起こした。


「分かった。それじゃあすぐ準備しよう?」

「了解です」


 海斗は眠くないのでまだ起きているつもりだが、寝る準備はしておいた方が良い。

 反論する事なく凪と共に寝る準備を終え、リビングに戻ってくる。


「それじゃあおやすみなさい、凪さん」

「何を言ってるの? 海斗も一緒に寝るの」

「え?」


 前回が例外なだけで、普通は男女別に寝るはずだ。

 なのに凪は僅かに唇を尖らせ、呆けた声を上げた海斗を不満そうに見つめている。


「別々に寝なきゃならない理由はないよね?」


 海斗は明確な言葉にしていないが、既に想いは伝えてあるのだ。

 好き合っている者同士が一緒に寝る事など、何もおかしくないのかもしれない。

 一度一緒に寝ているというのもあるし、膝枕だったりお互いの髪を乾かし合っているのだから、遠慮するのは今更だろう。

 それでも、以前とは互いの心境の違いもあり、一線を越えかねない状態なのだ。

 魅力的な提案ではあるが、素直に頷けはしない。


「……いや、まあ、そうかもしれませんが」

「ならいいよね?」

「あの、俺に何かされるとか考えないんですか?」

「海斗がしてくれる事なら、何でも嬉しいよ? したい事、していいからね?」

「はぁ……」


 流石に凪とて男女の関係は理解しているはずだが、それでも全幅の信頼を向けられてしまった。

 無垢な表情で首を傾げる姿に、何だか海斗が汚れているような気がしてくる。

 こんな姿を見せられれば、手を出す気など起きない。

 大きな溜息をつくと、アイスブルーの瞳に僅かな期待の色が宿った。


「それに、これは料理を手伝った私へのご褒美でもある。ご褒美は受け取らないと、ね」

「……ご褒美なら仕方ありませんね」


 海斗が流されやすいようにと告げられた言葉に、抵抗を諦める。

 一緒に寝るのを許可すれば、凪が海斗の手を掴んで自室へと向かった。

 扉を開けてベッドへと海斗を誘導し、彼女が先に潜り込む。


「おいで、海斗」


 ベッドに寝転がり、無防備な微笑を浮かべて海斗を誘う姿は、可愛らしさを備えつつも大人の魅力が溢れている。

 あまりにも危険な色香にくらりと頭が痺れ、醜い欲望が大きくなった。

 必死に理性で縛り付け、覚悟を決めてベッドへと入る。


「それじゃあ、お邪魔します」


 布団を被れば、甘い桃のような匂いが強く香った。

 至近距離の美しい顔は嬉しさに満ちており、どくどくと心臓の鼓動が加速する。

 全く落ち着けない状況の中、凪が海斗へと両手を広げた。


「はい」

「……えっと?」

「え? 寝る時は海斗を甘やかそうと思ったんだけど、駄目だった?」


 何を当然の事を、という風に告げられ、ひくりと頬が引きる。

 甘やかされるのは悪い気分ではないが、凪の口ぶりだとこれから海斗は毎回甘やかされそうだ。

 決して嫌ではないものの、間違いなく海斗の理性がどろどろに溶けてしまう。

 それすらも凪は喜んでくれそうな気はするが、甘やかされっぱなしは申し訳ない。


「駄目じゃないですが、今日は逆が良いなと思ったんです」

「逆って、もしかして……」

「まあ、そういう事です。どうぞ、凪さん」


 正解に至った凪へと今度は海斗が手を広げれば、アイスブルーの瞳が歓喜に彩られた。


「いいの?」

「勿論ですよ。……でも、偶には甘えさせてくださいね」

「うん! じゃあ明日は私が甘やかすね!」

「いきなり明日かぁ……。まあいいか」


 凪の言葉に苦笑しつつ、胸に飛び込んできた彼女を抱き締める。

 起きた時に凪を抱き締めていた事はあったが、自ら抱き締めたのは初めてだったはずだ。


(凪さん細いなぁ……。というか、すげー良い匂いする)


 華奢な体は力を込めれば折れそうな程に細く、けれども女性らしい柔らかさも兼ね備えている。

 程よくある胸の膨らみは、幸いにして二人共が厚手の服を着ているので、腹に当たってもあまり分からない。

 そして、ベッドに入った時から甘いが香っていたが、凪本人はやはりその匂いが強かった。

 興奮で心臓が早鐘のように鼓動する中、海斗の腕の上に凪の頭を置いて、ゆっくりと銀髪を撫でる。

 すると胸の中の女性が安堵の溜息を吐き出した。


「海斗に抱き締められるの、落ち着く。ずっとこうしてたい……」

「それじゃあ明日も俺がしましょうか?」

「それはだめ。宣言した事はちゃんとやるから」

「分かりましたよ。なら今は堪能してくださいな」

「そーするぅ……」


 余程気持ち良いのか、凪が間延びした声を漏らして海斗の胸に頬ずりする。

 全力で甘えられて、海斗の頬が勝手に緩んだ。

 そのまま凪を甘やかしていると、彼女がすんすんと鼻を鳴らす。


「海斗の匂いが、いっぱいする」

「そりゃあ密着してますから。嫌じゃないですか?」

「全然。むしろ良い匂い」

「なら良かったです。因みに、凪さんも良い匂いですよ」


 匂いを嗅がれるのは恥ずかしいが、こんな状況で気にしても仕方がない。

 凪が嫌でなければ構わないと、胸を撫で下ろして海斗も感想を告げる。

 すると、華奢な肩がびくりと震えた。


「……恥ずかしいから、嗅がないで」

「そう言われても、ここは凪さんの家ですからねぇ。嗅がずに生活するのは不可能ですよ」


 理不尽なお願いが、羞恥からもたらされたのは分かっている。

 苦笑を零して現状を説明すれば、行き場のない感情を伝えるように凪が海斗の胸を軽く叩いた。

 暗闇の中でも、銀色の髪の隙間から見える耳が真っ赤になっているのが見える。


「いじわる、へんたい……!」

「俺の匂いを嗅いだ凪さんが言う台詞じゃないと思いますが。というか男を部屋に上げるんですから、それくらいの覚悟はしてもらわないと」

「そ、そんなの、最初から意識する訳ない!」

「でしょうね。そうじゃないと俺を家に上げませんから」


 お互いの匂いを良いと思っている時点で、凪の言葉は痛くも痒くもない。

 お世話を始めた当初からの指摘をすれば、凪の羞恥に限界が来たのか、ぐりぐりと顔を胸に押し付けられた。


「うぅ……。あの、その、ホントに嫌な匂いじゃなかった?」

「はい。むしろ、ずっとこうして嗅いでいたいくらいですよ」

「や、やー!」


 銀色の髪に顔を埋めると、凪が悲鳴を上げて身を捩らせる。

 とはいえ本気で嫌がってはいないようで、駄々を捏ねるような多少の抵抗だが。


「全く警戒せず男の胸に飛び込むからです。それに、俺がしたい事をしていいって言いましたよね?」

「そう、だけど。……なら、明日はぜったい逆の事をしてあげる」

「覚悟しておきますよ」


 おそらく、明日の夜は海斗の理性が一番試されるだろう。

 どうして海斗が追い詰められているのか分からないが、こういうのも悪くない。

 一応の納得を見せた凪を、頭を撫でる事で慰める。

 暫く続けていると、彼女の呼吸が落ち着いてきた。


「……かい、と」

「はい」

「ありが、とう。すっごく、しあわせ」

「俺もですよ」


 想いを繋げた人と、何の憂いもなく一緒に寝られるのだ。

 興奮で心臓の鼓動は早いが、それでも幸せだと断言出来る。

 迷いなく告げれば、とろみを帯びたアイスブルーの瞳が海斗を見上げた。


「だい、すき」

「…………ありがとう、ございます」


 清二から泊まりの許可が出てはいるが、まだ問題が解決したとは言えない。

 好意に好意を返せないのが申し訳なくて、せめてものお礼として感謝を伝えた。

 それだけでも満足してくれたようで、凪が無垢な笑顔を浮かべる。


「ふふ。かい、と……」

「おやすみなさい、凪さん」


 再び凪を腕の中に入れ、あやすように背中を一定のリズムで叩くと、すぐに寝息が聞こえてきた。

 背中を叩くのを止め、少しだけ強く凪を抱き締める。


「俺も、ですよ」


 全てが解決したら絶対に伝えようと、改めて決意する海斗だった。

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