第70話 手入れを終えて

 凪と美桜が髪の手入れを終え、お互いに感触を楽しむ。

 とはいえ、感動が大きいのは今まで手入れをしてこなかった凪だ。


「おぉ……! 何か、艶がある気がする」

「そう言ってもらえると、頑張ったかいがありますよ。……まあ、元の素材が良過ぎて実感し辛いと思いますが」


 一緒に手入れした事で、凪の髪質の良さを改めて実感したらしい。美桜が苦笑しながら呟いた。

 しかし凪としてはかなりの変化だったようで、花が咲くような笑顔を美桜に向ける。


「でも、確かに変わってる。それに、美桜の手入れはすっごく気持ち良かったし楽しかった。ありがとう」


 凪は誰かと一緒に髪の手入れをする事などなく、貴重な体験だったのだろう。

 だからこそ、ストレートな感謝を美桜に告げた。

 海斗からすればいつも通りではあるが、やはり豪速球を投げられた側は照れるらしい。

 美桜が凪から目を逸らし、頬を僅かに染める。


「そ、そうですか……」

「ん。だから、美桜にしてもらった事、これからもちゃんと実践する」

「それならいっそ、肌の手入れもしましょうか」

「肌?」

「やっぱりこっちもですか……。言って正解でした」


 自らの提案で再び墓穴を掘った美桜が、がっくりと項垂れた。

 以前、何かのタイミングで頬に触れた際は瑞々しかったが、完全に自前のものらしい。

 納得と呆れの半分ずつ混ぜた苦笑をひっそりと落として事態を静観していると、復活した美桜が柔らかな笑顔を浮かべる。


「なら、こっちも全力で教えますよ。でも、その前に――」


 突然、美桜が海斗へ視線を向け、じとりと目を細めた。

 何かしてしまったかと内心で焦る海斗へと、彼女が口を開く。


「これから先は男子禁止。いい?」

「それならそれでいいけど、逃げる場所がないんだが?」


 髪ならまだしも、肌の手入れを見られるのは駄目。

 その考えに文句を言う気はないが、リビング以外に行く場所がないのは確かだ。

 まさか外で時間を潰せというつもりか、と僅かに目を細めれば「それなら」と鈴を転がすような声が聞こえた。


「私の部屋で時間を潰して」

「凪さんの部屋ですか?」

「うん。海斗は毎日入ってるし、遠慮する必要はない」

「……分かりました」


 ある意味いつも通りではあるが、女性の私室に男性が一人で居る状況は普通許されるものではない。

 しかも今回は片付けの時とは違い、目的のない単なる時間潰しなのだ。

 危険な気はするものの、かといって他に行く場所もないので有難く利用させてもらう。

 すぐに行くべきだとソファから腰を上げれば、僅かに潤んだ蒼の瞳が海斗を上目遣いで見つめた。


「でも、あんまり変な所を触らないでね」

「はい」


 これまでとは違う、明確に羞恥を覚えている凪の態度と言葉に、どくりと心臓が跳ねる。

 普段から片付けており、ほぼ配置を把握しているが女性の部屋なのだ。勝手に触るような失礼な事はしない。

 何とか笑みを作って凪に応え、彼女の自室へ向かう。

 ちらりと美桜を見れば、驚きと呆れを混ぜた何とも言えない表情をしていた。


「……突っ込みは野暮だから止めておくけど、後で天音に良い事があるよ」

「さんきゅ。まあ、期待しないで待ってる」


 美桜が何を考えているのか分からないが、もしかすると追い出す形になったのを気にしているのかもしれない。

 気負わないで欲しいと笑みを返し、今度こそ凪の自室に入った。

 喫茶店に集合する前に片付けた部屋ではあるが、甘い匂いにどうしようもなく胸が高鳴る。


「適当にスマホでも弄るかね」


 カーペットに座り込み、ベッドを背もたれにして時間を潰す海斗だった。





「天音ー。いいよー」

「あいよー」


 髪を乾かす時以上に時間が経った頃、リビングから美桜の声が聞こえた。

 すぐに凪の自室から出てソファに座り、二人の様子を窺う。


「ふー、やりがいあったぁ! 満足満足!」

「……ん。ありがとう、美桜」


 達成感の溢れる笑みを浮かべる美桜と、僅かに緊張した面持ちで頬を朱に彩らせる凪。

 二人の様子が違い過ぎて、嫌な予感がよぎる。


「一ノ瀬、やったのは手入れだけなんだよな?」

「黙秘権を行使しまーす。ほら、凪ちゃん先輩」


 何かを企んでいるような笑みで海斗の質問を躱し、美桜が凪を促した。

 海斗が僅かに警戒していると、凪が海斗の前に座る。

 最近恥じらいを覚えてきた女性は、何故か先程よりも頬を赤く染めていた。


「あの、海斗。私、髪と肌の手入れを頑張ったの」

「これまでの凪さんからすると、大変だったでしょうね。お疲れ様です」

「うん。それに、晩ご飯の荷物持ちも頑張った。だから、ご褒美が欲しい」


 期待と不安を混ぜた蒼の瞳が海斗を見上げる。

 荷物持ちは別として、髪と肌の手入れはご褒美にあまり関係がない。

 しかしこれは彼女が精一杯に考え、海斗と触れ合いたいと思ったからこその行動なのだろう。

 ちらりと美桜を見れば、明らかに楽しんでいる風な笑みを浮かべている。

 先程の言葉から察するに、ほぼ確実に結託しているのだから、美桜の前で遠慮する必要はないはずだ。


「いいですよ。俺は何をすればいいんですか?」

「触れて欲しい。髪とか、色々」

「……了解です」


 色々、と思わせぶりな発言に心臓の鼓動が乱れる。

 とはいえ、流石に頬以外の場所に触れるのは駄目だ。

 頬に沸き上がる羞恥を自覚しつつ、まずは美しい銀糸へ触れる。


「ん……」


 ゆっくりと髪を撫でれば、気持ち良さそうにアイスブルーの瞳が細まった。

 最近触れられなくなった凪の髪は、しっかりと手入れした後だからか以前よりもさらさらで滑らかだ。

 極上の触り心地を少しでも堪能したくて、くように撫で続ける。


「海斗の手、気持ち良い……」

「俺は凪さんの髪の感触が気持ち良いですよ」

「……髪だけじゃなくて、別の所もお願い」

「はい」


 可愛らしい催促に頬を緩め、今度は凪の頬に触れた。

 こちらは髪と違って随分前に触れた気がするが、髪と同じく素晴らしい触り心地だ。

 滑らかでありつつも程よい弾力は、はまってしまいそうになる。

 すりすりと擦るように撫でると、凪が僅かに身じろぎした。


「っ……。海斗、くすぐったい」

「す、すみません」

「ううん。くすぐったいけど、気持ち良い。だから気にしないで」


 アイスブルーの瞳がとろみを帯び、凪が口元を幸せそうに緩めて海斗の指に頬ずりする。

 その姿があまりにも愛らし過ぎて、抱きしめたくなってしまった。

 必死に欲望を抑えながら撫でていると「こほん」と小さな咳払いが耳に届く。


「私が狙った事だけどさ、ここまで堂々とイチャつかれると流石に気まずいんですが」

「ご、ごめんなさい!」

「す、すまん!」


 美桜の言葉に思考が冷え、弾かれたように凪と距離を取る。

 最初は美桜に見られていると分かっていたが、次第に美桜の存在を消してしまっていた。

 凪と共に慌てて謝罪すれば、美桜が大きな溜息を落とす。


「相談されたからアドバイスしたけど、こんな風になると思わないじゃん」

「美桜! それは言わないで!」

「えー。除け者にされたんだから、これくらいいいと思いまーす」


 凪と美桜で結託したのだから、凪が相談したのは予想していた。

 しかし、口にされるのは恥ずかしいようで、凪が頬を真っ赤に染めて美桜を問い詰めている。

 残念ながら美桜には効いておらず、完全に流されているのだが。


「ふぅ……。危なかった」


 あのまま凪を撫で続けていたら、海斗は何をしたか分からない。

 盛り上がる二人をよそに、ほっと胸を撫で下ろす海斗だった。

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