第55話 修学旅行を終えて

「よし、掃除終わりっと」


 家主の居ない家で、達成感と共に呟いた。

 勿論、凪には許可を取っており「いいよ」と簡素な返事をもらっている。

 自由に行動出来るので何をしてもバレないのだが、流石に海斗の中の良心が許さない。

 ふと時計を見れば、針が事前に凪から教えてもらった、いつも晩飯を摂る時間を指していた。


「凪さんは学校に着いてるだろうし、もうそろそろ帰ってくるな」


 今日は修学旅行の最終日であり、凪と久しぶりに会える。

 夜遅いので本来ならば家族が学校まで迎えに行くのだろうが、当然ながら凪を誰も迎えに行っていない。

 代わりに海斗が行けば凪も寂しくないと思うのだが、いくら海斗と凪が友人と知られていても、そんな事をすれば変な噂が立ってしまう。

 なので、久しぶりの掃除ついでに家で待つ事にしたのだ。


「それじゃあ鍋を温めなおすか」


 十一月も半ばを過ぎ、今日は一段と寒い。

 それに旅行から帰ってきて晩飯まで待たせるのは申し訳ないと、暖かくなれる料理を事前に作っておいたのだ。

 煮込みすぎるのもよくないので、弱火でじっくりと温める。

 ついでに食器等の準備をしながら待っていると、玄関の鍵が開く音がした。

 鍋の火を止め、すぐに玄関へ向かう。


「おかえりなさい、凪さん」

「……え?」


 久しぶりに見た美しい顔立ちは、海斗の声を聞いて驚きに彩られた。

 住んでもいない海斗が「おかえり」と言うのは変なのかもしれない。

 それでも家主を迎える際の言葉としては、間違っていないはずだ。

 固まる凪へと、微笑みながらもう一度告げる。


「そんなに驚いてどうしたんですか? おかえりなさい。それとお久しぶりです、凪さん」

「ん。ただいま、海斗!」


 ようやく帰ってきたと実感したのか、それとも海斗に「おかえり」と言われたからなのかは分からない。

 凪が花が咲くような鮮やかな笑みを浮かべ、喜びを露わにした。

 その笑顔があまりに魅力的で、海斗の心を容赦なく揺さぶる。

 しかし、すぐにしゅんと形の良い眉が下がった。


「昨日は電話出来なくてごめんなさい」

「約束してなかったんですし、気にしないでください」


 表情をころころと変える凪に、苦笑を零す。

 凪が同じグループの人達と盛り上がっていたら、海斗が電話を掛けると邪魔をしてしまう。

 そう思って寂しさを押し込め、昨日は連絡を取らなかったのだ。

 気に病む事ではないと凪を慰めるが、端正な顔から曇りが晴れない。


「でも……」

「いいんですよ。代わりと言っては何ですが、修学旅行の感想を聞かせてください」

「……っ。うん、分かった」


 もっと謝りたかったようで凪が瞳を伏せるが、すぐに柔らかい笑みを浮かべてくれた。

 少し沈んだ空気はあっさりと普段通りの穏やかなものに戻り、海斗の胸から寂しさがなくなっていく。


「でも、まずは荷物を預かりますよ。中身は洗濯しますよね?」

「う、うん。そうだけど、自分でやる」

「疲れてるでしょうし、遠慮しなくていいですよ?」

「ううん、やる。だって、汚れてるから……」


 キャリーバッグを受け取ろうとしたが、凪が白磁の頬をうっすらと赤く染めた。

 恥ずかしそうに告げられた言葉に、ようやく失敗を悟る。

 今まで海斗が触れていた凪の服や下着は全て洗った後だったし、海斗が家に来る前に凪は汚れた服を洗濯機に放り込んでいた。

 しかし、今日は珍しく凪が汚れた服等を持っているのだ。

 じわじわと沸き上がる熱が頬を炙る前に、考えなしだった事を後悔して思い切り頭を下げた。


「す、すみません。そりゃあ触られたくないですよね」

「ん。そういう事だから、自分でやりたい」

「了解です」


 未だに頬を朱に染めている凪へ背を向け、リビングに戻る。

 その後ろを凪がついてきて、洗濯機のある脱衣所で別れた。

 

「ん? さっきの凪さん、何か変だったな」


 何が、とは口に出来ないが、何かが以前とは違っていた気がする。

 先程の凪の態度を思い返しながら晩飯の準備をしていると、あっさりと違いを見つける事が出来た。


「そうか。恥ずかしがってたのか」


 少し前の凪は、淡々と汚れた下着に触って欲しくないと言っていた。

 あの時は単に衛生的な話をしていたのだろう。

 けれど、先程の凪は明確に海斗に触られるのを恥ずかしがっていた。まるで海斗を男性として強く意識しているように。


「……まさかな」


 たった数日会わなかっただけで、凪が以前よりも海斗を男として見るようになった訳がない。

 かぶりを振って有り得ない可能性を頭から消すと、ちょうど凪が脱衣所からキャリーバッグを持って出てきた。


「キャリーバッグ、預かりますよ」

「ううん。私がやるから大丈夫」

「は、はぁ……」


 海斗の反応を見るよりも早く、凪が物置にしている部屋にキャリーバッグを持っていく。

 今までとは全く違う姿に困惑していると、凪がリビングに帰ってきて顔を曇らせた。


「あ、晩ご飯……」

「お腹空かせてるだろうと思って、準備しておきました。もしかして、空いてませんか?」

「そんな事ない! 久しぶりの海斗のご飯、すっごく楽しみ」


 肩を落とした凪だったが、海斗の言葉に勢いよく首を振る。

 すぐに席についたので、海斗も凪の正面に座った。


「「いただきます」」


 手を合わせて食材に感謝し、まずは茶碗に凪の分の具をよそう。

 宣言通り腹が減っていたらしく、鍋のいい匂いを嗅いでアイスブルーの瞳が輝いていた。

 凪に茶碗を渡せば、熱々の具に勢いよくかぶりつく。


「んぅ!? あふ、あふいぃ……」

「そりゃあそうなりますって。はい、どうぞ」


 瞳に涙を浮かべて口をはくはくと動かす凪に苦笑を零し、水を差しだした。

 かなり口の中が熱いようで、凪は水を受け取って慌てて飲む。


「んぐ……。はふぅ。危なかった」

「ホントに危ないですよ。火傷したらどうするんですか」

「……ごめんなさい。でも、早く食べたかった」

「いや、まあ、そう言ってくれるのは嬉しいですけど、落ち着いて食べてくださいね」


 口の中の火傷はかなり辛いようなので、そんな思いを凪にして欲しくはない。

 なのに素直に欲求を口にされて歓喜に胸が弾み、注意だけで済ませてしまった。

 

「ん。そうする」


 小さく頷いた凪と共に、改めて晩飯を摂る。

 彼女の様子を窺えば、幸せだという風に顔が綻んでいた。


「海斗のご飯、おいしい。一番口に合う」

「そりゃあ良かったです。たっぷり作ったんで、満足するまで食べてくださいね」

「ん!」


 今は返事よりも食い気のようで、凪が一瞬だけ海斗を見て返事をしたが、すぐに鍋へと視線を戻す。

 子供っぽい姿が微笑ましくて、いつも通りの柔らかい空気が心地よくて。

 凪が恥ずかしがるような表情をした、という変化は気になるが、それでも海斗の唇が弧を描いたのだった。

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