第24話 達成感と睡魔

 男の理性を壊そうとする布地との戦い終える頃には、海斗の中の何かがぷつりと切れていた。

 どうせここまで来たのならと、凪の自室の扉を勢い良く開ける。 


「リビングは終わったんで、凪さんの部屋を掃除させてもらいます」

「え、あ、うん、いいよ」


 リビングの服ですら片付けるのを躊躇ためらっていたのに、堂々と宣言したのが意外だったらしい。

 アイスブルーの瞳がぱちくり、と瞬きしていた。

 冷静な思考がやりすぎではないかと、一度落ち着けとささやいてくるが、そんな理性は必要ないと投げ捨てる。

 海斗は女性の下着を堂々と触り、全て片付けたのだ。

 今なら何だって出来そうな気がする。


「よし、それじゃあやっていきます。どうしても触られたくない物があるなら、自分で片付けて下さいね」

「片付ける物は無いけど、海斗が見ちゃダメなのがある」


 流石に自室となれば、海斗にも見られたくないものがあるらしい。

 ベッドで横になっていた凪が、普段勉強しているであろう机へと向かっていく。

 勿論片付いているはずもなく、本や何らかの資料で殆どが埋め尽くされていたが、唯一ぽっかりと穴が空いている場所があった。

 そこにはパステルカラーの部屋に似合わない、武骨な黒いノートパソコンが置かれている。

 以前凪の部屋に入った際は全く見る余裕がないのと本の多さで気付かなかったが、それはあまりにも異物感を出していた。


「これ以外なら触っても大丈夫だから。それと資料も整理してくれると物凄く助かる」

「……それは良いんですけど、何が入ってるんですか?」


 凪が下着を気にしないのを分かっていたとはいえ、それに準ずる物を見られたくないならまだ納得出来る。

 だからこそ、ノートパソコンの中身が気になってしまった。

 海斗の質問に、普段なら何も感情を映さない瞳が真剣な光を帯びる。


「秘密。私の仕事内容を海斗に教える訳にはいかない」

「ああ、それが仕事に関係しているんですね」


 以前凪から聞いた、家を出る条件である仕事。

 その内容がパソコンに入っているのなら、海斗が見てはいけないのも納得だ。

 海斗とて喫茶店で仕事をする身なので、そういう割り切りがあるのは理解している。

 とはいえ、家で仕事をしているのは意外だった。


「……何か、そこで凪さんが仕事してる想像が出来ませんね」

「もしかして、馬鹿にしてる?」

「そういうつもりはありませんって。のんびりと本を読んでる姿しか見てなかったので、その……」


 アイスブルーの瞳がすうっと細まったので慌てて弁明するも、尻すぼみになる。

 頭が良い事はうわさや小難しい本がある事、そして凪が語った過去から分かってはいたが、どうにも意識し辛かったのだ。

 海斗の態度がしゃくに触ったらしく、小さな唇が不服そうに尖る。


「どうやら、私のイメージを変える必要があるみたい」

「いやまあ、凪さんがしたいなら構いませんけど。具体的にはどうするつもりですか?」

「ん……。海斗は明日暇なの?」

「明日ですか? 特に予定はないですよ」


 明日は日曜日なので、早い時間帯から喫茶店で働くつもりだった。

 しかし清二には今日と同じで、凪の家に行くと言えば大丈夫だろう。

 何せ、凪の部屋を片付けるとしか伝えていないにも関わらず、清二は喜んでくれたのだから。


「なら明日も昼から来て。それと、静かに時間を潰せる何かを持って来た方がいいかも。私の本を読んでもいいけど」

「了解です。本に関しては気が向いたら読ませてもらいますね」

「うん。それじゃあ、片付けをお願いね」


 海斗がリビングを掃除していた時と同じように、邪魔にならないよう配慮してくれるのだろう。今度は凪がリビングへ向かった。

 凪との会話で多少は頭が冷えたものの、それでも女性の部屋を掃除する事に躊躇ためらいはない。

 これから先、海斗はただ掃除をするだけの存在になるのだから。


「うし。引き続き、気合入れてやりますか」


 強く香る桃の匂いを意識から弾き出し、片付けに入るのだった。





「はぁ…………」


 凪の部屋の片付けから数時間が経ち、達成感を胸にソファへ勢いよくもたれる。

 重い溜息をつきながら外を見れば、空は赤く染まっていた。


「終わった終わった。あー、すっきりした」

「本当にありがとう、海斗。でも、お風呂掃除とか洗濯とかまでしなくても良かったのに」

「ここまで来たら折角だっていう事で、止まれなくなったんですよ。今日は本気を出しました」


 止まれなくなった本当の理由は、凪のベッドのシーツを変えようとした際に彼女の匂いが強く香り、気を紛らわせようとしたからだ。

 流石に詳細は言えないので適当に誤魔化し、ぐったりと力を抜く。

 とはいえ、海斗の努力によって数時間前の汚部屋など見る影もなくなっていた。

 下着に関しても、ある程度耐性が付いたと言っても良いだろう。

 最早凪の家を掃除する事に抵抗はないし、隣に座っている凪も気にならない。全く気にならないのは、限界を超えた今限定な気がするが。


「……迷惑を掛けてごめんなさい」

「何言ってるんですか。これはお互いが納得の上での事でしょう? 謝られる理由なんてありませんね」


 誰かに構って欲しいという思いから部屋を片付けない凪と、汚部屋が我慢出来ずに掃除した海斗。

 これは、そんな二人で決めた事なのだ。

 しゅんと眉を下げる凪に肩を竦めて苦笑を向ければ、彼女の顔から負の色が取れた。


「なら、ありがとうだね」

「……そう言ってくれる方が嬉しいです」


 嬉しさを滲ませた微笑みがくすぐったくて、心を落ち着かせる為に視線を逸らす。

 もぞりと体を動かせば、僅かな不快感が沸き上がってきた。


「そうだ。晩飯まで時間がありますし、一度帰って良いですか?」

「何か用事を思い出したの?」

「用事というか、掃除を張り切り過ぎたので汗を流したいなって」


 汗を掻いたり汚れたりするのは分かっていたので、変えの服は用意している。

 しかし、体のべたつきはどうしようもなかった。

 晩飯まで時間が無いのなら諦められたのだが、このタイミングなら海斗の家に帰っても問題ない。

 隠す事でもないので正直に伝えれば、きょとんと無垢な表情で首を傾げられる。


「ならここで汗を流せばいい。わざわざ帰るなんて面倒」

「そう言ってくれるのは有難いですけど、良いんですか?」

「むしろ何で駄目なの? 海斗がこの家を掃除したんだし、遠慮なく使って欲しい」

「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね」


 風呂場は一度掃除して何があるか把握しているし、今更女性の使っている風呂場だと緊張もしない。

 凪の厚意に甘えさせてもらい、さっとシャワーを浴びて汗を流す。

 使っていなかったラフなシャツとズボンを着てリビングに戻れば、凪がソファで寛いでいた。


「シャワー、ありがとうございました」

「ん。これからはいつでも使っていいからね」

「それはどうかと思いますが、まあ、凪さんがそう言うなら」


 汗だくになる機会などそうそう無いが、許可が出たのは有難い。

 何かあれば使わせてもらおうと思いながら、再びソファに座った。

 晩飯まで特にする事がなく、静かで穏やかな空気がリビングを満たす。

 掃除の疲労とシャワー後で体が温まっている事もあり、だんだんとまぶたが重くなってきた。


(他人の家で寝るって、駄目だろ。でも、これ、ねむ…………)


 時折凪が本のページをめくる音が子守歌となって、海斗を眠りへと誘う。

 気付けば瞼が閉じており、意識を沈める海斗だった。

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