第25話 去来する感情

「……海斗?」


 本を読み始めてどれくらい経っただろうか。読み終わって意識を周囲に向ければ、部屋が静寂に包まれていた。

 凪一人ならおかしくはないのだが、今はソファの端に海斗が座っている。

 スマホでも触っているのかと思って視線を向けると、まぶたを閉じて静かに寝ているのが目に入った。


「すぅ……」

「そうだよね。掃除、大変だったよね」


 凪の我儘わがままのせいで海斗は動きっぱなしだったのだ。眠くなるのも仕方がない。

 せめてゆっくり寝かせてあげたいと、ソファから立ち上がってリビングの端へ向かう。

 畳んでくれていたブランケットを掴んで海斗の元へ戻ると、身じろぎしたのか彼は横になっていた。


「私にはこんな事しか出来ないから、たっぷり寝てね」


 部屋を片付ける気の無かった人が偉そうにと、ブランケットを掛けながら苦笑を落とす。

 何もしないのは申し訳なく、最初は海斗を手伝うつもりだった。

 しかし、海斗は凪の気持ちを見抜いた上で断ってくれたのだ。

 胸の温かさにうながされるように、海斗の前に座って寝顔を見つめる。


「こんな事になるなんて、思わなかった」


 初めの居場所では周囲に馴染めず疎まれ、次の居場所では必死に頑張ったが仲を深められなかった。

 ならばと逃げた先で他人に迷惑を掛けたら、こんなに優しい人が世話を焼いてくれるようになったのだ。

 凄まじい巡り合わせに、くすりと笑みを落とす。


「いつもいつもありがとう、海斗」


 自分が恵まれている事も、その上で我儘を言っている事も自覚している。

 そして、そんな凪を海斗は受け入れてくれた。

 あの時の嬉しさは、少しも伝わっていないだろう。


「私の初めての友達。一番信頼出来る人」


 知り合って一ヶ月と少しだが、そう思えるくらいには海斗を信用している。

 そうでなければ彼の前でくつろごうとはしないし、部屋の掃除を任せたりしないのだから。

 これから先も世話を焼いて欲しいと思いながら立ち上がり、綺麗に整頓された本棚へ向かう。

 今読んでいる本の続きを取ろうと思ったのだが、何がどこにあるかさっぱり分からなくなっていた。


「う……。これは困る」


 折角海斗が片付けたのだ。分からないからとあれこれ引き出し、一瞬で散らかしたくない。

 流石にそのくらいの分別はある。

 それに、いくら優しい海斗でも片付けを無意味にされたら怒りそうだ。

 彼が怒る姿を想像するだけでぶるりと背筋が寒くなり、本を引っ張り出す事なくソファへ引き返す。

 手持ち無沙汰ぶさたになってしまったので、再び海斗の前に座った。


「じー」


 普段の海斗は落ち着いた雰囲気を纏っており、年下とは思えないくらいにしっかりしている。

 しかし今は気持ち良さそうに寝ているからか、年相応に見えた。

 意外に長い睫毛や柔らかそうな黒髪など、凪との違いをじっくりと確認していく。


「……何だろ、これ」


 男女の違いがあるのは当たり前なのに、何故か胸に温かなものが沸き上がった。

 不思議で、けれど心地いい感覚にどう対応すればいいか分からず、首を傾げる。

 それでも海斗へ視線を向け続けていると、まぶたが震えて茶色の瞳が凪を映した。


「ん……。あれ?」

「おはよう、海斗」

「っ!?」


 海斗が目を白黒させて跳ね起きる。

 顔に困惑と焦りを宿して慌てる姿は珍しく、凪の頬が勝手に緩んだ。


「も、もしかして寝てましたか?」

「うん。そんなに長くなかったけどね。だから、もっと寝ていいよ」


 晩ご飯まで少し時間があるので、眠いのなら二度寝して欲しい。

 それで多少ご飯が遅くなっても怒るつもりはないし、その権利もない。

 なのに、海斗は渋面を作って首を振った。


「……いえ、止めておきます」

「遠慮しないでね。ソファが嫌だったら私のベッドを使っても良いよ?」

「それは駄目でしょうが!」

「何で?」


 海斗には凪の自室を隅々まで掃除してもらったのだ。

 当然ながらベッドにも触れられており、今更嫌がる理由などない。

 なので、ソファを占領するのが嫌ならばと提案したのだが、ベッドも使いたくないらしい。

 訳が分からず首を傾げると、海斗が頭痛を覚えているかのようにこめかみを抑えた。


「……何でも、です。軽く寝てスッキリしましたし、もう大丈夫ですよ」

「分かった」


 嘘を言っているようには見えないので、深くは踏み込まない。

 もし地雷を踏んでしまったら、凪は謝る事しか出来ないのだから。

 簡素な返事をして立ち上がるが、ふと海斗の寝顔を見ていた理由を思い出した。


「そうだ。この続きがどこにあるか分かる?」

「えっと、それなら――はい、どうぞ」


 流石に場所は分かっているらしく、海斗が本棚からあっさりと目的の物を持ってくる。

 こんなにも簡単に見つかるのならと、凪の頭の中に悪い閃きがよぎった。


「ありがとう。これからは海斗に取ってもらうね」

「……片付けたのは俺ですし、家に居る間ならいいですよ」


 断られないと思っていたが、やはり海斗は仕方ないなあと苦笑しながらも承諾しょうだくしてくれた。

 どんどん駄目人間になっている気がするものの、最早止められない。


「でも、俺が居ない時はどうするんですか?」

「その時は私が頑張る。出来るだけ散らかさないようにするから安心して」

「何にも安心出来ませんねぇ……。気を遣ってくれるのは嬉しいですけど、しまわなくていいですよ」

「なら遠慮なく」


 どうやら信用されていないようだが、前科があるので言い訳出来なかった。

 とはいえ出来る限りは元に戻そうと決意しつつ、言葉では甘える。

 その後はのんびりと読書し、海斗が晩ご飯を作るのを待つ。

 しばらくすれば、熱々の唐揚げがテーブルに乗った。


「「いただきます」」


 二人して手を合わせ、ひたすらにご飯と唐揚げを掻き込む。

 衣はサクサクで、かぶりつけば肉汁が溢れる。この違いが堪らない。

 清二が作ってくれたご飯も美味しかったが、凪の口には海斗の味の方が合った。

 どうやら、師匠と弟子では味に僅かな違いがあるらしい。


「今日も美味しい。ありがとう、海斗」

「……どうも」


 温かなご飯に心とお腹を満たし、感謝を伝えるのが凪の日課だ。

 凪の我儘に振り回しているのだから、これくらいはすべきだろう。

 気恥ずかしいのか海斗がそっぽを向くのも、もはやいつも通りの流れになっていた。

 そして晩ご飯とその片付けを追えれば、すぐに海斗が帰っていく。


「それじゃあお邪魔しました」

「うん。またね」


 海斗が来る時は好きに上がっていいからと迎えに行っていないが、帰る時は玄関までだが送っている。

 エレベーターに向かう彼を見送り、リビングへと戻った。

 先程まで二人でいたせいか、どうにも広く感じる。


「胸が、苦しい、な……」


 凪と海斗はずっと喋っている訳ではない。

 むしろ別々の事をやっているせいで、無言の時間の方が多い。

 そう考えると海斗が居ようが居まいがリビングの静かさは変わらないはずなのに、なぜか胸が痛むのだった。

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