第20話 事後報告

 凪が寝てからある程度時間が経ち、海斗は彼女の手を放して立ち上がった。

 部屋の電気を消してリビングに向かい、凪の学生鞄を漁る。


「……これ、普通の人が見たら不審者だよな」


 凪が許可したので海斗が非難される理由はないし、そもそも彼女の家なので誰も見ていない。

 それでも、女性の鞄を漁るという事に罪悪感を抱く。

 気にしたら負けだと思って目的の物を探せば、あっさりと見つかった。

 ただ、鍵がいくつかあるせいで、どれが凪の家の鍵なのか分からない。


「まあ試せばいいか」


 シンプルな水色のキーケースを持って玄関に向かい、外に回って鍵を差し込んでいく。

 すぐに一つの鍵がまわったので、それをキーケースから外した。


「大切にしますね、凪さん」


 これは凪の信頼の証なのだ。何が何でも失くす訳にはいかない。

 リビングに引き返して鍵を海斗のキーケースに入れ、凪のは元の場所に戻しておく。

 もうここに居る理由はないので、忘れ物は無いか周囲を見渡した。


「……分かってはいたけど、凄い有様だな」


 服だけでなく下着や本が散乱し、多くはないが飲んだ後のペットボトルも落ちている。

 足の踏み場もないという程ではないが、男性の夢を粉々に打ち砕くような部屋なのは間違いない。

 ペットボトルに関してはこれから海斗がキッチンに入るので、お茶を作り置きすれば減るだろう。

 しかし、この部屋を片付ける日はいつになるだろうか。


「意外とあっさり許可してくれたりしてな。……流石にそれはないか」


 家に入って料理を行い、一緒に食べるだけでも大きく距離を縮められている。

 これ以上のものを今すぐに求めれば、凪からの信用が地に落ちるかもしれない。

 浮かれ過ぎはよくないと、頭を振って思考を冷やす。

 とはいえ、散らかった部屋に居続けるのもそれはそれで海斗の精神に悪い。

 なにせ、今すぐにでも片付けたいと思っているのだから。


「いやいや駄目だって。すぐに出よう」


 これ以上一人でこの場に居ては、勝手に手が動いてしまいそうだ。

 ペットボトルは良いとしても本は直す場所が分からないし、服や下着を勝手に触るのはどう考えても変態だろう。

 目の前に女性の下着があると言う事実を今更ながらに強く意識し、見たいと言う欲望が沸き上がる。

 しかしそんな事をしてしまえば凪を裏切る事になると、欲望を理性で縛って立ち上がった。


「また明日です。お邪魔しました」


 扉越しに凪に挨拶し、家を出る。

 このまま家に帰ってもいいのだが、出来る事ならすぐ依頼主に報告したい。

 幸いな事に、学校が終わってから真っ先に凪の家に行って看病等を行ったので、バイトの終了時間は過ぎていなかった。

 いきなり行っては駄目だと連絡を取れば「来てもいいよ」と返事がくる。

 凪の家を出て少し歩き、見慣れた喫茶店に入った。


「こんばんは、海斗くん」

「こんばんは、清二さん」

「あれ、こんな時間に天音が来るって珍しいね」


 どうやら気晴らしに来たようで、清二だけでなく美桜も挨拶をしてくれる。

 彼女の愚痴を聞いてあげたいが、今は凪の事情説明の方が大切だ。

 ちらりと清二に目を向ければ、小さく頷かれた。


「海斗くんは僕が呼んだんですよ。ちょっと話したい事がありましたから」

「そういう事だ。悪いな、一ノ瀬」

「んー? そりゃあ私はお客だからね。私の前で話せない事もあるだろうし、気にしないで」

「さんきゅ」


 ひらひらと手を振って、興味無いと態度で示す美桜の心遣いが有難い。

 彼女に感謝を伝えて裏に引っ込み、清二と向き合う。


「それで、凪ちゃんの事で何かあったのかい?」

「はい。凪さ――西園寺先輩には許可をもらいましたが、一応報告しておこうと思って」


 何度も名前を呼んだせいで、清二の前でも「凪さん」と呼びそうになってしまった。

 慌てて取り繕うが、とっくに店員の顔を捨てた清二が、面白そうなものを見つけたかのように唇の端を吊り上げる。


「ふぅん……。まあ取り敢えず話を聞くよ」

「それじゃあ――」


 家の主である凪が許可したとはいえ、筋は通さなければならない。

 なのでこれから凪の家で料理を作る事、彼女と一緒に晩飯を摂るようになった事、そして家の鍵を受け取った事を伝えた。

 いくら清二にお世話を頼まれたとはいえ、女子高生の家で男子高校生と二人で晩飯を摂る許可は出ないのではないか。

 反対されるのも覚悟していたのだが、海斗の話を聞き終えると清二の顔が柔らかく綻んだ。


「なら、これからも頼むよ」

「そ、それだけですか?」

「凪ちゃんの家で料理を作った方が効率が良いし、一緒に食べるのなら海斗くんの手間も省ける。何か問題があるかい?」

「……ないですけど」

「それに家の鍵については、凪ちゃんが大丈夫と判断して海斗くんに渡したんだろう? なら僕は凪ちゃんの意思を尊重するよ」

「いや、その、そうしてくれるのは有難いんですけどね……」


 凪の様子だと海斗に恋愛感情はないようだし、海斗としても彼女とは釣り合わないので付き合いたいと思っていない。

 しかし清二は凪の面倒を見ている人として、彼女と海斗に何かあっては困るはずだ。

 口にするのは身の程知らずな気がして顔を俯ければ、くすりと小さな笑みが海斗の耳に届く。


「僕は凪ちゃんの件を海斗くんにお願いしただけだ。君たちが世間に顔向け出来ない事をしない限り、干渉はしない。それとも、そんな事をする予定があるのかい?」

「そりゃあしませんが……」

「その言葉だけで十分だよ。それに、凪ちゃんに心を許せる人が出来たんだ。その相手が海斗くんなら、何も言う事はない」

「ありがとう、ございます」


 お世話というには近過ぎる距離を咎めず、しかも受け入れてくれた清二に、ありったけの感謝を示す。

 深く頭を下げれば、ごつごつした手が海斗の頭に触れた。


「それに、これで海斗くんもバイトに専念せずに済むからね。もっと高校生活を謳歌おうかするんだよ」

「……頑張ります」


 父のような清二の温かさに、目の奥が熱くなる。

 しかしここで甘える事だけは許されないと、ぐっと奥歯を噛んで感情を押し込めた。


「でも、バイトにも出ますからね」

「本当に、君は……。別に良いけど、凪ちゃんのお世話が優先だよ。それと決して無理はしないでね」

「了解です」


 仕方ないなぁという風に苦笑する清二へ頷きを返す。

 彼に心配されているのは分かっているが、師匠であり恩人でもある人へ何か返したい。


「少しだけバイトしてもいいですか?」

「バイト代は変わらないよ?」

「分かってます。そういう気分なだけですから」

「じゃあお願いするね」


 清二の穏やかな微笑みを背に受け、更衣室へ向かうのだった。













 カウンターに座りながら耳を澄ませていると、どうやら彼は着替えに入ったらしい。

 今がチャンスだと、奥から出て来た喫茶店の店長である初老の男性に尋ねる。


「彼に何をさせてるんですか?」


 唇に弧を描かせ、言い逃れは許さないと言葉で圧を掛けたが、男性は全く動じない。

 それどころか、同質の笑みを返された。


「貴女には関係のない事ですよ。『一ノ瀬』のお嬢さん」

「へぇ……。彼をそちらの事情に巻き込むなら、容赦はしませんよ。『西園寺』の付き人さん?」

「彼のやっている事に干渉する権利は貴女にありません。彼は既に『一ノ瀬』から離れていますから、ね」


 喫茶店の空気は息が詰まったように重く、他の客が居れば逃げ出していたかもしれない。

 露骨な警告をしたが、男性は感情の読めない微笑みを浮かべてそよ風のように流す。

 隠している真実を知られていたという事に、思わず顔をしかめた。


「……知っているんですね」

「知っていますし、推測していますよ。貴女と彼がどんな関係なのか、貴女が何を目的にしてここに来ているか。その全てをしっかりと」

「その割には、私と彼の会話を止める気が無いように見えますが」

「単なる女子と男子の会話ですから。それに、貴女は絶対に彼の隣に立てない。貴女が一番良く分かっている事でしょう?」

「…………ホント、食えない人です」


 こちらの内心を知り、その上で何も問題はないと放置されている現状。

 それが悔しくて、負け惜しみと分かっていつつも悪態をつき、注文していたカフェオレを口に含む。

 流石にこれ以上やぶを突いて蛇を出したくないのか、男性が苦笑を浮かべて肩を竦めた。


「まあ、単に私が彼を手放したくないというのもありますがね。なにせ、彼は私の最高傑作ですから」

「それは、まあ、そうでしょうね」


 彼はあまり自覚がないし自らを卑下しがちだが、彼の持っている能力は素晴らしいものだ。

 料理に気遣い、そして纏う穏やかな空気と、彼を深く知る女性が増えれば取り合いになると思える程に。

 彼の力に関しては完全に同意だと、微笑みを浮かべる。


「だからこそ、彼にしか出来ない事をさせているんです。今の所は私の予想通りの動きですね」

「……」


 問い詰めたくはあったが、同じ問答をした所で男性が口を割る事はない。

 せめてもの抵抗として睨みつければ、微笑ましいものを見るように小さく笑われた。


「ああ、心配は無用ですよ。むしろ上手く行けば、貴女にもメリットがあります」

「それは、どういう……?」

「今は語る時ではありません。期待してお待ちいただければと」

「……分かりましたよ。取り敢えずは大人しくしてます」

 

 彼に害がないのなら、今の所は静観してもいいだろう。

 目の前の老人が、彼を潰すような真似をしないと分かっただけで十分だ。

 再びカフェオレを口に含み、思いきり顔を顰める。

 随分前に注文したホットのカフェオレは、とっくの昔に冷えていた。

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