第19話 無防備な信頼

「じゃあ俺が片付けをしてる間に、温かい恰好へ着替えてくださいね」


 晩飯を摂り終え、食器を纏めながら凪に提案する。

 彼女は風邪を引いているが、服装は普段と同じ薄着のままだ。

 長袖と長ズボンなので決して駄目ではないものの、念には念を入れなければ。

 しかし、風邪を引いている当の本人が嫌そうに口を尖らせる。


「えー。面倒くさい……」

「駄目です。悪化したらどうするんですか」

「……分かった」


 絶対に譲らないと真っ直ぐに見つめれば、凪が素直にリビングに落ちている服を漁り始めた。


「んー。最近引っ張り出したのがあるはずだから……」


 どうやら十月に入って、衣替えの為にある程度服を出したらしい。

 しかし厚手の服を着るには少し早いので、そのまま放置していたのだろう。

 宙を舞う服の中に、水色や白、黒といった色とりどりの布地が混ざっている。

 男子高校生には刺激が強すぎて、思いきり視線を逸らした。


(というか、異性に見られてるって自覚が無いみたいなんだよなぁ……)


 最初に家に入った時のように、散らかった部屋をよく知らない人に見られたくないという羞恥はあるらしい。

 しかし、どうにも海斗が男子高校生だという認識が無い気がする。

 恋愛感情が分からないと言っていたので、海斗に見られていてもどうでもいいのだろう。

 おそらく凪の中での海斗の立ち位置は、信頼出来る友人、というものになっているはずだ。

 それはそれで嬉しいものの、今の状況は問題だ。

 とはいえ男として意識してくれと言うのも虚しく、出来るだけ見ないようにして海斗も後片付けを始める。


「ん、しょ……」

「ちょっと!?」


 凪の家はキッチンからリビングが見渡せるのだが、その状況でも彼女はシャツに手を掛けた。

 流石にそれは駄目だと、慌てて凪に駆け寄ってシャツを下へ引っ張る。

 綺麗なへそや雪のように真っ白なお腹を見た事に関しては、不可抗力だと自分に言い聞かせた。

 突然着替えを止められた事で、アイスブルーの瞳が不思議そうに海斗を見上げる。


「何で止めるの?」

「男が見てる前で着替えちゃいけません!」

「あ、そうだった。でも海斗なら見られてもいいよ?」


 男に見られる状況で着替えては駄目だという知識は流石にあったらしい。

 そうでなければ体育の際に大変な事になるので、当たり前の話ではあるが。

 しかし、信頼出来る相手だから見られても良いという判断になるとは思わなかった。

 頭痛を覚えつつ、言い聞かせるように目の高さを合わせて告げる。


「こういう時に俺だけ特別扱いは駄目です! ほら、部屋に行ってください!」

「う、分かった、分かったから」


 海斗の剣幕に押され、凪が立ち上がって自室に行く。

 その後ろを押すように付いていき、凪を部屋に押し込んだ。


「ちゃんと着替えて寝てください、いいですね?」

「ん」


 凪が頷いたのを確認し、ぴしゃりと扉を閉める。

 リビングに戻ったのだが、ドッと疲れが襲ってきて床に座り込んだ。


「信用されるって大変なんだなぁ……」


 凪は恋をした事もなく海斗以外に友人も居ないので、初めて出来た信頼出来る人への壁が薄くなるのは理解出来る。

 しかし、いきなり無防備になり過ぎて心臓が忙しい事になっていた。

 それでも凪に対して悪感情は湧かず、むしろ危なっかし過ぎて今まで以上にお世話をしなければと思うのだから、海斗は完全にほだされているのだろう。


「でも、下着があちこちにあるのは何とかして欲しいな」


 ちらりとリビングに視線を移せば、放り出したままの下着が散乱している。

 天国とも地獄とも言える光景に、大きく息を吐き出すのだった。





 その後は順調に片付けを終え、海斗のやる事がなくなった。

 なので最後に様子を見ておこうと、凪の自室をノックする。


「入ってもいいですか?」

「いいよ」


 あっさりと許可が出たので中に入れば、桃のような甘い匂いが強く香った。

 この家は凪が生活しているので、彼女の匂いがするのは当たり前だ。

 それでも自室の匂いが濃ゆいのは、一番生活している場所だからだろう。

 そのせいで、凪の自室に入るのが二度目であっても落ち着かない。

 動揺を押し殺して凪の様子を窺うと、きちんと毛布を被ってベッドに横になっていた。


「……ちゃんと着替えたんでしょうね?」

「海斗に怒られたくないから言う通りにした」

「ならよしです」


 着替える理由が子供みたいだなと苦笑を零し、ベッドへ向かう。

 満腹になったからか、アイスブルーの瞳はとろみを帯びていた。


「眠いですか?」

「ちょっとだけ」

「じゃあ遠慮なく寝てください。無理は駄目ですよ」

「分かってるけど、氷枕がぬるくなってるのが気になる」

「はいはい、交換しますね」


 熱のせいもあるだろうが、凪が遠慮なく頼ってくれるようになったのが嬉しく、海斗の唇が弧を描く。

 とはいえ、美少女が瞳を潤ませながらお願いしてくる光景は心臓に悪い。

 動揺を心の奥底に押し込め、氷枕を掴んで凪の頭の下から引っこ抜こうとする。

 しかし、何故か凪が全く頭を浮かせなかった。


「このままだと取り辛いんですが」

「なら氷枕を持ってきた時と同じ事をすればいい」

「持ってきた時と? ……ああ、そういう事ですか」


 何をすればいいかすぐに分かったが、やれと言われた上で行うのは少々ハードルが高い。

 出来る事なら凪に頭を浮かせて欲しいものの、この様子だと彼女は絶対にしないだろう。

 これは看病で仕方のない事だと、適当な理由で自分を納得させ、凪の頭に手を伸ばした。


「じゃあ失礼しますね」

「ん……」


 湿った銀色の髪に手を伸ばし、頭を浮かせる。

 くすぐったそうな声が海斗の心をくすぐるが、意識しては駄目だ。

 すぐに氷枕を引っこ抜き、凪の頭をベッドに寝かせる。


「すぐ持って来るんで、待っていてくださいね」


 凪の楽し気な「うん」という言葉を背に、彼女の自室を出てキッチンへ向かった。

 氷枕の中の温くなった水を交換し、新たに氷を入れる。

 冷たくなった氷枕を手に凪の自室へ戻って、再び彼女の頭を浮かせた。

 三度目であっても緊張したものの、手際良く行って交換を終える。


「これで良いですか?」

「ばっちり。ありがとう、海斗」

「いえいえ。何かして欲しい事があったら言ってくださいね」

「ん……。それじゃあ、海斗はいつ帰るの?」

「はい? そうですねぇ。凪さんが寝たら帰りますよ」


 脈絡のない質問に首を傾げつつも、この後の予定を口にした。

 いくら凪の看病をするとはいえ、彼女の家に泊まるつもりはない。

 常識的な行動なのに、凪は形の良い眉を歪ませる。


「……そうなんだ」

「はい。なので、一回だけでいいので鍵を貸してくれると助かります。家の鍵を閉められなくなりますから」


 しゅんと落ち込む凪をあえて無視してお願いをすれば、彼女がリビングを指差した。


「リビングの私の鞄にキーケースがあるから、そこから取って」


 女性の鞄を漁るのはどうかと思うが、凪は動けない。

 それに彼女が許可したのだし、ここで鍵を預からなければ施錠出来ないのだ。

 仕方のない事だと言い聞かせて頷く。


「……じゃあ、遠慮なく」

「それと、鍵は海斗にあげる。エントランスの暗証番号は――」

「ちょ、ちょっとストップです!」


 鍵を貸すのではなく渡され、更に暗証番号まで聞いてしまった。

 いくら何でも不用心過ぎだと問い詰めれば、可愛らしく小首を傾げられる。


「ん?」

「下手をすると俺が凪さんの家に無断で入れるんですよ!? そんなの駄目でしょう!」

「海斗なら大丈夫。それに、清二さんに言いつけられる状況で何か出来る?」


 凪の家で変な事をすれば、バイト先の店長であり凪のお世話の依頼人である清二へ話が行く。そんな状況で悪さなど出来るはずがない。

 もちろんどんな状況でも悪さをするつもりはないものの、凪の理論武装に負けた気がして肩を落とした。


「……無理ですね」

「そういう事。だから、鍵は海斗にあげる」

「分かりましたよ。大切にしますね」


 信頼のこもった瞳に決意を返し、肩の力を抜く。

 凪は話したい事を話して満足したのか「ふわぁ……」と可愛らしい欠伸あくびをした。


「沢山話して眠くなってきちゃった……」

「なら寝てください。病人はそれが仕事です」

「その前に、最後のお願い、いい?」

「何ですか?」


 不安に揺れる瞳に笑顔を向ければ、小さな手が布団の隙間から出て来る。

 もこもことしたピンク色の袖が見えるので、ちゃんと海斗の言う事を守ったらしい。

 服全体が見えれば相当可愛いのだろうなと、小さく笑みを零す。


「私が寝るまで、手を繋いで欲しい」

「了解です」


 こころよく引き受けはしたが、女性と手を繋ぐ事など初めてだ。

 どくどくと心臓の鼓動が早まり、指先が震える。

 それでもこういう時くらい見栄を張らなければと、細く白い手を掴む。

 包み込むように握れば、凪の顔がふにゃりと蕩けた。


「海斗の手はおっきいね」

「凪さんの手は小さいですね」

「ふふ、安心、する……」


 実はかなり眠かったのか、凪が目を閉じてすぐに寝息を立て始める。

 幼い子供のような安らかな寝顔は、あまりにも可愛らし過ぎて見惚れてしまいそうだ。

 しかし流石にマナー違反なので顔を逸らす。


「ホント、無防備過ぎだろ」


 凪との約束に従うなら、海斗はもう手を放して良い。

 それでもこの温もりを手を放すのが惜しくて、暫くジッとしているのだった。

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