第9話

 沈んだ日がまた昇り、真上を過ぎて傾き始め、美香の通う華桜高校へ行く時が来た。

 昨日決めた通り、ディサエルはスーツの代わりにパーカーや白シャツを着てスニーカーを履いた。ショルダーバッグの中に何を入れたのか聞いたが、何も教えてくれなかった。私はというと、白地に薄い水色のストライプ柄のワイシャツに深緑色のロングカーディガンにジーパンという、ディサエル曰く「落ち着いてる」格好だ。派手な格好をする必要性はないんだから、落ち着いていたっていいだろう。万が一の場合に備えて杖をカーディガンの内側に作ったポケットに入れた。これでいつでもサッと取り出せる。

 華桜高校へは歩いて行った。少し時間は掛かるが、それでも十五分程度だ。

「意外と普通の街だな」

 久しぶりに外に出たディサエルは、街並みをキョロキョロと眺めながらそう言った。

「意外とって……どんな街だと思ってたの」

「この世界に来てすぐ奴らに出会って倒されたから、奴らに有利な環境なのかとも思ってたんだ。だが全然そんな事も無いな。魔力が溜まりやすい場所は既に魔法使いが住んでる。お前の屋敷みたいにな。だから……」

 ディサエルはそこで言葉を切って、大きな溜息をついた。

「改めて考えるまでもないが、魔力ではない、純粋な力の差で負けたのか……」

 肩まで落として見るからに落ち込んでいる。そんなにショックだったのか。

「だって見てみろよ。オレのこの姿。どこからどう見ても非力な十五歳の子供だろ? 強そうに見えるか? こんなんで成人男性の集団相手に戦っても勝ち目があるわけないだろ」

「そうだね……。でも、その成人男性集団のいる場所に行って、スティルさんを助けないといけないんでしょ?」

「ああ。そうだな。いいか翠。オレは本来あんな奴ら一捻りできる力を持ってるんだ。忘れるなよ」

 苦い顔をしながらも、鋭い目で私に忠告してきた。が、こちらも忠告しておく。

「一捻りするのはやめてね」

 その後も他愛もない事を話しながら歩いていると、目的地、私立華桜高等学校が見えてきた。運動場も何も無くいきなり校舎があるのだな、と驚いていたら、道路の反対側に運動場があった。

「翠さん、ディースくん! こっちです!」

 学校の正面玄関と思しき場所で、美香がこちらを向いて手を振っている。わざわざ出迎えてくれたのか。

「美香さんこんにちは。お出迎えありがとう」

 ディサエルも“ディースくん”モードになって「こんにちは」とにこやかに挨拶した。

「こんにちは。道に迷っていないか心配になって、外に出て早く来ないかな~って待ってたんです。あ、あと今日は従姉妹同士の設定なので、さんじゃなくていいですよ」

「そうだったね。ありがとう、美香ちゃん」

 仕事だと思うとどうしても敬語になってしまうのだ。その方が角が立たなさそうだから。だが今日は美香の従姉妹という体で来ている。ディサエルの様に、上手く演技をしなければ。

「一応ディースくんの学校見学、という事になっているので、早速案内しますね」

 美香を先導にして校内へ入っていく。まずは玄関脇にある事務室で事務員さんに挨拶をし、それから靴を脱いでスリッパに履き替える。美香が「少し待っていてください」と言ってすぐ横の職員室に入っていく。私たちが来た事を報告しているらしい声が聞こえてくる。別の声が「しっかり案内してあげてね」と言うと、その後から美香の元気な返事が聞こえてきた。誰か先生が付いて見学をするのかと思っていたが、案内役は美香だけらしい。きっと信頼されているのだろう。こちらとしてもその方が面倒が少なくて済む。美香が戻ってくると、早速学校見学が始まった。

 放課後という事もあり、廊下では生徒同士で雑談している姿も見受けられる。美香はスカートかスラックスか選べる、と言っていたが、流石は私立高校。選ぶ事ができるのはそれだけではないようだ。リボンをつけている生徒もいれば、ネクタイを締めている生徒もいる。柄も無地かチェック柄かも選べるようで、生徒たちは思い思いの制服に身を包んでいる。また特進コースと呼ばれる一部のクラスはまだ授業中で、教室内で真剣に授業に取り組む生徒たちの姿も見られた。

「凄いですよね。毎日何時間も勉強するなんて。私だったら息が詰まっちゃいます」

 廊下から特進コースの様子を眺めながら、美香が授業の邪魔にならないよう小声で言った。

「うん。私も無理かも」

 知らない事を知るのは好きだが、だからと言って皆が部活をしている時間にまで授業を受けたい訳ではない。それに帰宅後には課題をやらなければならないのだ。一日中勉強ばかりしているなんて耐えられない。

「ボクは学ぶのって楽しいと思いますけど」

 ディサエルは首を傾げながら言った。異世界の神様には授業や課題の辛さが分からないようだ。

「うわぁディースくん、そう考えられるって凄いね。偉いよ」

 私もそれに同意するように頷いた。

 まだまだ回る所はありますから。と言って美香は別の校舎に私達を案内した。その校舎は美術室や音楽室、化学室に調理室といった特別教室を集めた校舎で、今この時間は部活動を行う生徒達が利用している。

「美香さんは何か部活に入ってるんですか?」

 ディサエルが聞いた。

「うん。私は文芸部に入ってるよ。ディースくんは……元々どこの国に住んでたんだっけ? そこの国って部活あるの?」

「ボクはメキシコ出身です。ボクが通ってた学校には部活はありませんでした。日本のアニメを見て部活に憧れていたので、美香さんが羨ましいです」

 何かテキトーな事言い出したぞこの神。

「へぇ、ディースくん日本のアニメ見るの? 何が好き?」

「魔法少女ウヅキが好きです」

「……⁉」

 今、何て……?

「そのアニメって確か私が生まれる前だったか、生まれて間もないくらいに放送してたアニメだよ。よく知ってるね」

「そうなんですか。海外では割と有名ですよ」

 美香とディサエルはアニメ談義に花を咲かせ始めた。ディサエルはこの世界に来るのは初めてと言っていたくせに何を物知り顔で語っているんだ、というツッコミをしたいが美香のいる前でそれはできない。

 それよりも、だ。

 魔法少女ウヅキは私が幼少期の頃に放送していた女児向けアニメだ。主人公のウヅキが他の十人の少女たちと共にシワス先生から魔法を教わりながら、時に仲間と共に街を守り、時に喧嘩をし、時に大きな壁にぶつかり、そして仲間と共にそれを乗り越えていく……そんなアニメだ。最近放送開始から二十周年を迎え、記念グッズが発売されたり、イベントが開催されたりもした。ディサエルの言う通り海外でも人気のあるアニメだが、何故その名前を出したのだ? 他にもアニメはごまんとあるのに。

「それで、翠さんの部屋にサツキのフィギュアが置いてあって感動しました」

 自分のせいだった……‼

「へぇ~、凄~い! 翠さんウヅキ見てたんですね。もしかしてリアタイ世代ですか?」

「ああ……うん。リアタイ世代だよ」

 私の部屋に置いてある、ディサエルが昨日何で盗難防止魔法が掛かっているのかと聞いてきたフィギュア。それこそ魔法少女ウヅキに登場するキャラクターの一人、魔法少女サツキのフィギュアだったのだ。二十周年記念に作られたフィギュアで、それなりの値段がしたのだが、サツキは私の大好きなキャラクターであり心の支えでもあったのだ。そんな彼女の最終回での変身シーンを立体化させたあのフィギュアはどうしても欲しくて……って、この話を長々と説明する必要は無いな。話が逸れすぎた。あの後どうやって魔法少女ウヅキの知識を得たのかは二人きりになった時にでも問いただすとしよう。

「それより美香ちゃん、今の時間って部活中だよね。部活行かなくって大丈夫だった?」

「全然大丈夫ですよ。うちの部活の活動日は月、水、金の週に三日なので。今日は元々休みなんです」

「あ、そうなんだ」

「それに部活中もだいたい皆で駄弁ってるだけなので、行っても行かなくてもそんなに問題ないんです」

「ガッツリ活動してる部活だけじゃないんですね」

「うん。あ~あ、ディースくんが昨日か明日来ていれば、文芸部も紹介できたのにね。うちの部員アニメ好き多いから、きっと歓迎するよ」

 タイミグが悪かったですね。と言ってディサエルは笑った。

 部活とアニメの話に区切りがつき特別教室を巡った後、漸く今日ここへ来た本当の目的、謎の臨時講師に会う時が来た。

 臨時講師は自習室とやらで待っているらしく、その部屋は私たちが今いる校舎ではなく、最初に来た職員室や普通の教室のある校舎の五階にずらりと並んでいるそうだ。

 案内します。と言った美香を先頭に、ディサエルがすぐ後に続き、最後に私、という並びで廊下を歩き始めた、その時だった。ディサエルが鞄に手を突っ込み、何かを取り出してそれを音も無く手放した。

「今何したの」

 誰にも見られていない事を確認し、さっと聞き耳防止魔法を掛けて前を歩くディサエルに聞いた。こうしておけば、美香や他の生徒に私たちの会話が聞こえる心配は無い。

「やっと気づいたのか」

 意外そうな顔をしてディサエルが言った。“やっと”だと?

「学校に着いた時から仕掛けてたのに、全然気づいてなかったのか」

「何? 何の事?」

 これだ。と言ってディサエルは鞄からその何かを出して私に見せた。それは握れば隠れてしまうくらい、小さくて真っ黒な、カラスのような何かだ。

「……何これ」

 見せられても何も分からず、私は素直に聞いた。

「校内に何か魔法が掛けられていないか調べるために作ったんだ。魔法が掛けられていれば、解析して、どんな魔法なのか教えてくれる」

「神ならそのくらい簡単に分かるんじゃないの?」

「魔力が十分にあればな」

「ああ……」

 失礼な事を言ってしまったような罪悪感を少し覚えた。何だか申し訳ない。

「えーっと、それで、どうやって使うの?」

「放ってやれば勝手に動く。んで、暫くしたら勝手に戻ってくる」

 そう言ってディサエルは手に持ったカラスを放る。するとカラスはその小さな翼を羽ばたかせ、窓の隙間を縫って何処かの教室内へと入っていった。と思うと別の一羽が飛んできてディサエルの耳元に留まり、何か囁いて鞄の中へ入っていった。

「下の階には何の魔法の仕掛けも無いってさ」

なるほど。これならいちいち一部屋ずつ見回る手間が省ける。

「便利だね」

「だろ?」

 このカラスは勿論魔法で動いているから魔力が込められているが、込められているのはディサエルの魔力だし、その魔力量はとても少ない。だからよく注意していないと飛んでいるカラスの魔力は見えないし、そもそもディサエルが近くにいるのもあって、カラスが飛んでいる事にこの私でも今の今まで気がつかなかったのか。

(まだまだ修行が足りないな)

 魔力が見える、と言ってもそれに気がつかなければ見えないも同然だ。これから件の臨時講師に会うにあたり、もっと注意しなければならないだろう。


「ここが自習室ゾーンです。何人かで使える部屋もあれば、完全に個室になっている部屋もあるんですよ。例の先生が待っているのは何人かで使える方のここ……第三自習室です」

 校内をあっちへこっちへ歩き回り、遂に臨時講師の待つ教室の前まで来た。禍々しい魔力でも漂っていたらどうしようかと思っていたが、廊下にいる限りでは特に何も問題ない。どこからか吹奏楽部の合奏する音が聞こえてくる。放課後の学校そのものの空気しか感じられない。だが油断は禁物だ。

「あの、私も一緒にいた方がいいですか? できれば、その……同席したくは……」

 美香が言いにくそうに言葉を尻すぼみにさせた。一昨日も不安そうにしていたし、無理もない。

「大丈夫ですよ」

 ディサエルは美香を安心させるように、彼女の手を握った。

「ここまで案内してくださり、ありがとうございます。美香さんはもう帰っても大丈夫です」

 ディサエルが美香の目を見据えながらそう言うと、美香はぼうっとした顔で頷いた。まるで催眠術にでも掛けられたように。

(今から会う人物よりも、目の前にいる人物の方が怖いんですけど……)

「相手からしてみれば、オレは魔王だからな。好きなだけ畏怖の念を抱いていいぞ」

 美香はぼうっとした表情のまま何も聞こえないかのように、階段の方へと歩いていった。実際、何も聞こえていないのだろう。だからディサエルが〝ディースくん〟の演技をしていない。映画の悪役のような笑みを浮かべている。

「何で美香ちゃんにこんな事したの」

 ディサエルが神であれ魔王であれ、心を操る類いの魔法を掛けるのは許しがたい。心を操る魔法は禁忌だと、大体の作品でそう相場が決まっている。魔法少女ウヅキでもそうだった。魔法界でだって服従の呪文は許されざる呪文の一つだ。現実でだって、桃先生や聡先生からも駄目だと言われている。勿論駄目だと言われなくてもやる気はない。

「一緒に来たくはなさそうだったし、どうせこれからの話し合いにこいつは不要だろ?」

 何の悪気も無さそうにディサエルは言い放った。当たり前の事をしただけだとでも言いそうな顔がムカつく。

「だからって操る必要性はないでしょ。ただここで待っているように言うだけじゃ駄目なの?」

「こうしておけば話を聞かれずにすむからいいだろ。お前は何をそんなに怒ってるんだ? ほら、さっさと中に入るぞ。オレが相手よりも強いと信じる事を忘れるなよ」

 そう言ってディサエルは自習室の扉を開けた。もっと何か言い返してやりたかったが、どうにもディサエルに勝てる気はしない。人間の倫理観を理解していないような奴に言った所で無駄骨を折るだけだ。ああ、こんな言い訳しかできない自分にも腹が立つ。仕方ないが釈然としないまま一緒に中に入った。

 第三自習室の中には仕切りのついた長机が四セット。最大で十六人がこの中で勉強できる造りになっている。壁面に取り付けられた本棚には、参考書や問題集といった類いの本がずらりと並んでいる。部屋の奥で男性が一人椅子に座り、こちらに背を向けている。この人物が件の臨時講師か。彼の周囲には少なからず魔力が漂っている。色は水色。昨日の人物とは別人だ。

 物音に気づいた男性は椅子から立ち上がり、くるりと体を回しこちらを向いて「こんにちは」と挨拶してきた。太陽の光を浴びて光る白い肌。すらりと背が高く、明るい茶髪に青色の瞳。その辺のサラリーマンよりも華麗にスーツを着こなし優しそうな笑みを浮かべるその姿は、確かに多くの女子高生がきゃあきゃあ騒ぐであろう事は想像できる。美香はそれが理解できなかったようだが、私もその気持ちは理解できなくもない。私は好きなキャラクターを演じた俳優、もしくは声優が目の前にいる。なんてシチュエーションでもない限りはきゃあきゃあ騒ぐタイプではないのだ。

 ディサエルは入口で立ち止まったまま、動こうとも喋ろうともしない。こちらも挨拶くらいはせねばと思い、私は口を開いた。

「こんにちは。羽山美香の従姉妹の紫野原です。あなたがコダタ先生ですか?」

 美香から聞いた臨時講師の名前はコダタ・モノノだ。どこの国の名前なのかさっぱり分からないが、カルバスの手下か何かであれば、カタ王国の名前……なのだろう。

「ええ、僕がコダタです。紫野原さん……と、お隣の方がディースさんですね。お話は羽山さんから聞いています。カタ神話の事を詳しく知りた」

「オレの妹は何処だ」

「「は?」」

 私とコダタの声が被った。話の途中でディサエルが急に割り込んだのだから、無理もない。というか当初の作戦はどうした。何故いきなり妹の話をする。人の話を聞く事ができないのかこいつ。

「妹……とは、一体何の事でしょうか」

 コダタは困惑した表情で問う。

「お前たちは何と呼んでいたか……ああ、そうだ。この世で一番美しい女性。太陽の神。……カルバスの妻」

 ディサエルは淡々と、だが最後の部分だけは吐き捨てるように言った。

「おや。スティル様の事をご存じなのですね。ですが何故妹など、と……」

 そこで言葉を切ったコダタはディサエルの姿をまじまじと見つめ、初めは愕然とした表情を浮かべ、それから怒りでか恐怖でかは分からないが唇をわなわなと震わせた。

「お……おま、お前……ま、魔王……‼」

「正解だ」

(……⁉ な、んで……⁉)

 突然ディサエルから膨大な量の魔力が溢れてくるのを感じた。私はディサエルがコダタよりも強い、と文字通り強く信じてもいないのに。と思った次の瞬間にはディサエルはコダタの目の前にいて、彼の首根っこを片手で掴んでいた。

「がっ……あ……」

 コダタは苦しそうに喘いでいる。背を向けているディサエルの表情は伺い知れないが、その周りに漂う魔力は闇のように黒く、何百本もの槍がコダタを狙いすましているように見える。

(これは……流石にヤバい)

 魔力は靄のように漂っている事が多い。普通の魔法使いが魔法を使った時でもそうだ。だが力の強い魔法使いの場合はその限りではない。どんな魔法を使うかにもよるが、綺麗な模様を描く時もあれば、感情が形を伴って現れる時もある。今のディサエルの場合は後者だ。怒り、それと恐らくは相手を殺したいという感情が、魔力を槍の形にさせている。

 何とかしなければ……。そうは思えどディサエルの放つ威圧感に押し殺されそうで一歩も動けない。くそ。この意気地なしめ。

「オレの、妹は、何処だ」

 ディサエルは首を掴んだまま最初の質問を繰り返した。だが当然コダタは何の返事もできず、苦しそうな声を出すばかりだ。目には恐怖の色が浮かんでいる。

「あ? 何て言ってんのか全然聞こえねぇぞ」

 魔力の槍はじりじりとコダタに迫っていく。その光景にも、この空気感にも、耐えられそうにない。

(何とか、しなきゃ……)

 カーディガンの内ポケットへと手を伸ばす。カワセミの彫刻が手に触れる。触りなれた木の質感に安心感を覚え、深呼吸しながら心を落ち着かせる。大丈夫だ。私ならこの状況を打破できる。そのまま握りなれた持ち手まで手を這わせ杖を引き抜く。杖を本棚に向け、一言呟いた。

「飛べ」

 本棚に並べられた本という本が一斉にガタガタと動き始めた。その音に気づいたディサエルが本棚に目を向けた時には、本たちは我先にと本棚から飛び出しているところだった。本棚からディサエルへと杖を一振りすると、大量の本がディサエル目掛けて飛んでいった。

「おい何して……痛っ……おい!」

 ディサエルは片手で本を振り払おうとしたが、数が多すぎて対処しきれないのか、首を掴んでいた手を放し、悪態をつきながら暴徒化した本の軍団を沈静化させた。

 やっと自由を得たコダタは床にへたり込み、酸素を求めて荒い呼吸を繰り返している。槍の形をしていたディサエルの魔力は、今はその形を失い床に散らばった本の周りに靄のように掛かっている。一応はあの恐ろしい状況を対処できた。呪縛から解かれたように私は安堵の溜息を漏らした。

「紫野、原……さん。……ありが……がっ」

 息も絶え絶えながらに喋ろうとするコダタを、ディサエルは容赦なく踏みつけた。

「何で邪魔したんだよ」

 普段と何一つ変わらない表情でディサエルは私を見据ええた。普段と何一つ変わらないからこそ、私はこの神を——否、魔王を空恐ろしく感じた。

「その人……コダタさんが苦しそうにしてたから」

 怯みそうになりながらも、私は真っ直ぐディサエルを睨みながら言葉を絞り出した。そんな私に呆れたようにディサエルは言う。

「お前は相手が敵だろうが何だろうが、今みたいに助けるのか?」

「それは……」

 そんな事を言われても、こうした状況に遭遇する機会なんて今まで無かった。だが、それでも何か言わなければ、答えなければいけない。何も言わずに逃げる事など、目の前の魔王は許しはしないだろう。なぜなら魔王は今や大きな手を魔力で形作り、私を掴み掛からんと迫ってきているのだから。

「分からないけど、でも……魔法で人を傷つけるのは、間違ってる」

 魔法で誰かを傷つける人は、現実にだって、物語の中にだって存在する。でも、私の好きな魔法使いたちは、物語の主人公たちは……それを良しとはしない。敵が窮地に陥っている場面で、その敵を助けようとする。そんな主人公に憧れを抱く時もある。だから私も、そうありたい。

「ふうん」

 私の返答を聞いたディサエルは、納得したのか、それとも興味が失せたのか、コダタから足を退け、魔の手も霧散させた。そしてそのまま「もういい」と言って自分の姿さえも跡形も無く消し去った。ディサエルの魔力も何処にも見えない。本の散らばった自習室内は私とコダタの二人きりとなった。

「大丈夫ですか?」

 私は尚も苦しそうに喘いでいるコダタに近寄り、しゃがみ込みながら聞いた。

「ええ……ありがとう、ございます。あなたも、魔法使い……なんですね」

「はい。その……もう少し早く助けてあげられればよかったんですが」

「そんな、とんでもない。助けていただいただけで、とてもありがたい事です。それに相手があの魔王では、怯んでも致し方の無い事……」

 コダタはそこで一息ついて、また喋り出した。

「あなたは、あの魔王と共にいましたが……奴が魔王だという事はご存じだったんですか? 何故魔王の側に? あなたも操られていたんですか?」

 一度に質問を幾つもされても困るのだが、私は簡単にこれまでの事を説明した。私が魔法使いで、探偵業を営んでいる事。そこにディサエルが依頼人としてやってきて、妹を探してほしいと頼んできた事。美香が学校に謎の臨時教師が来たから、その正体を突き止めてほしいと依頼してきた事、等々。美香とは従姉妹でも何でもない事も話した。

「確かに僕達は魔王をおびき寄せる為にも、この地域の学校に潜入しましたが……まさか生徒を怖がらせていたとは思いもしませんでした。僕としては、ただ純粋にカタ神話の事を知ってもらい、カルバス様を信仰する人が一人でも増えてくれれば、と思って皆さんにお話ししていましたから」

 しょんぼりした顔でコダタは言った。この人的には悪意も何も無く、純粋な気持ちで布教活動をしていたのか。だが何故他の教師陣に己の存在を隠したのだろう。ついでだから聞いてみた。

「それは、僕がやったのではありません。他の者が、不自然さがあった方が、魔王の耳にも届きやすくなり、すぐ我々の前に現れるだろう。それに、子供の方が純粋無垢だから……と。だから教師の方々には、僕の存在を隠すように魔法が掛けられました。その結果、思惑通りに魔王が現れた訳ですが……まさか僕の所に来るだなんて、思ってもいませんでした。僕はまだ戦闘経験が浅いのに……」

 悲壮な顔をして言うコダタ。何だかこの人の事が可哀想に思えてきた。

「あなたは、奴が魔王だと知っていた……と言うより、魔王自身の口からそう聞かされたそうですが、よくあんな恐ろしい魔王と一緒にいられましたね。それに、その魔王から僕を救ってくれた。英雄と称えられて然るべきですよ」

 苦しそうにしながらも、なんとか笑顔を作ってコダタは喋ろうとする。私は寧ろその頑張りを称えたい。

「いえ、そんな。魔王だとは聞かされていましたが、家にいた時は魔力が足りないからと、魔法を全然使ってなくって、自分の手で掃除したり、ご飯作ったりしていましたし、あんな酷い事をする人だとも、凄い魔力を持っているとも知らなかったので……さっきは本当に驚きました」

「そうなんですか……。魔王は人を騙し、操るのが非常に得意な奴です。きっとあなたに対しても、本来の力をひた隠し、良い神であると印象付けさせ、騙していたのでしょう……ゴホッゴホッ」

 コダタが苦しそうにせき込み始めた。

「大丈夫ですか⁉ 何か、回復魔法を……」

 咄嗟に思いついた呪文を幾つか唱えてみたが、それでもコダタの苦しみは癒えなかった。その時不意に気がついた。ディサエルに掴まれた首の周りに、影と見紛う程薄く、黒い靄が首輪のように巻き付いている事に。これは間違いなくディサエルの魔力だ。これが取りついている限り、苦しみから解放される事は無いだろう。何て酷い事を……。

「ディサエルの……魔王の魔法が掛かっています。私には、どうしようも……」

 悔しいが、本来の力を取り戻したディサエルに私の力では太刀打ちできない。それは決して私が弱いという訳ではなく、ディサエルが強すぎるのだ。これが人間と魔王の差……。

「魔王の、ですか……。それでは、一旦イェントックに戻った方がいいでしょう」

「イェン……何ですか?」

 すっかり忘れていたが、この人も別の世界から来ているのだった。つまり、ディサエルと同様に、会話の中で聞いた事の無い単語が出てくる場合がある、という事だ。

「ああ、カルバス様直属の騎士団が、遠征先で一時的な拠点としている場所を、イェントックと呼ぶんですよ」

 また一つ、使いどころの分からない知識が増えた。

「イェントックに戻れば、呪いを解くのが得意な者がいます。魔王の呪いも解けるかは分かりませんが、やってみる価値はあるでしょう」

 そう言ってコダタは立ち上がろうとしたが、またすぐに膝をついてしまったので私は慌てて肩を貸した。自分よりも背が高く体重もある人を支えるのは骨が折れる事だが、物理的に折れてしまう前に魔法で体を支えた。

「こんな状態で一人で行くのは無茶ですよ! そのイェン……トックまで、一緒に行きます」

「紫野原さん……あなたはとても優しい方ですね。神よ、彼女にも加護を与えたまえ」

 と言ってコダタは拳を胸に当て、その手を開きながら掌を天に向け、腕を降ろしながらまた拳を作ってそれを胸に当てた。祈りのポーズか何かだろう。知らない神の加護を与えられても……とは思ったが、彼はただ純粋な気持ちでやっているのだろうし、何も言わずにいるのは失礼だ。私は丁寧に礼を述べた。

「それでは、イェントックまで案内していただけますか?」

「ああ、行き方は簡単ですよ。これを起動させるだけです」

 コダタは懐から小さなメダルを取り出した。男の人の横顔が描かれた、海外の通貨にありそうな丸い金色のメダルだ。

「これはカルバス様直属の騎士団、ディカニスに選ばれた者だけが所持できるメダルです。これがあれば、いつでもどこからでもイェントックに戻る事ができます」

 コダタは誇らしそうにそう言った。きっとこのメダルを所持しているというのは、とても名誉な事なのだろう。

「それは便利ですね。では、早く行きましょう」

 コダタが掌にそのメダルを乗せて何事か言うと(何て言っているのか全然聞き取れなかった。たぶんカタ語だ)メダルは眩い光を放ち、私達を包み込んだ。その眩しさに思わず目を閉じ、収まった頃に再び目を開くと——目の前の光景は、自習室のそれとは全く異なっていた。

 周りは木々に囲まれ、遠くからは鳥の鳴き声が聞こえてくる。その中にポツンと、それでいて堂々と佇む荘厳な教会。この街にこんな教会があるとは知らなかったが、辺り一帯が魔法の障壁で囲まれている事から察するに、一般人の知る由もない場所なのだ。いや、だからと言って魔法使いならだれでも知っていると言う訳でもないのだが……兎にも角にも、私の知らない場所だ。そしてここが……。

「ここが、イェントックです」

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