第31話

 とても死神には見えない。

 外見上攻撃性は皆無である。

 それにしても、シエラはいつまでこの草食動物の格好でいるつもりだろうか。百歩譲って姿はこのままでいることを許すとしても、せめて意識だけは回復してもらわねば困る。警察が動き出すまでに、今後の身の振り方を一緒に考えてもらわないと。

 タイガーバームの匂いでもがせるか。

 中学の修学旅行の時に、タイガーバームは何にでも効くと豪語し、見せびらかす同級生がいた。それで家に帰るやいなや、自分も母親にねだって買ってもらったのだ。その時のタイガーバームを、実家からこの部屋に持ってきている。結局一度も触っていないので、薬箱に入っているはずだ。押し入れの布団の奥から、小さな十字のマークがついた箱を引っ張り出す。ガーゼや湿布をよけると、箱の隅に小さなガラスのびんが姿を現した。このエキゾチックな小瓶ならば、確かに何にでも効きそうだ。蓋を開けると、その匂いが一瞬で部屋を支配する。

 中学の同級生は少しでいい、少しでいい、そんなにたくさん使うと効かなくなるぞ、などと言っていたが、あれは単に自分のタイガーバームを惜しんだからに相違あるまい。やはり小量より大量の方が効くはずだ。

 小瓶に残っていたタイガーバームの全量を、ウサギの鼻面に入念に塗りたくる。

 と、ウサギは、盛んに鼻を動かしたり、顔をしかめたりする。

 やがて小さなくしゃみを一つした。

 すると落ち着いて、また静かな寝息をたて始めた。

 中学の同級生にだまされた。

 そうだ。修学旅行の時、蚊に刺された痒みが、タイガーバームを塗っても一向に治まらなかったのだ。脳のゴミ箱に捨てられていた記憶が元に戻った。あの時、他の連中が効いた効いたと騒いでいたので、本当はまるで効いた気がしないのに、同調圧力に負けて効いたと言ってしまったのだった。

 仕方がないので、現実逃避的にコーヒーブレイクとする。

 キッチンに立って、冷蔵庫を開け、コーヒー牛乳と普通の牛乳の紙パックを取り出す。もちろん黄金比ブレンドを作るためである。しかしそのレシピは自分の皮膚感覚中にしかないため、実際、黄金比になるかどうかは時の運による。

 完成品を試飲する。

 完璧な出来上がりだ。

 人類史上最高傑作と言ってもよい。

 これは是非シエラにも飲ませてやらねば。

 芸術的逸品を、ストローで吸って、ウサギの「人」の字の口の隙間に先端だけ挿入し、ゆっくりと流し込む。

 ウサギの喉が動き、至高の作品がその体内に摂り込まれたことが確認された。

 すると、あら不思議、ウサギの姿が、見ている目の前で形を変えてゆくではないか。耳が縮んでゆく。全身を覆った銀色の毛が消えてゆく。きめ細やかな肌が、鼻の稜線が、あごの角度が、頭髪のウェーブがよみがえる。

 黄金比ブレンドには、なんと神通力が宿っていたのか。

 ウサギは、元の可憐なフランス人形に戻った。

 見慣れた鼻で、大きく一つ息をつく。そして、「人」の字から「w」の字に戻った口が、ムニャムニャと動く。

「シエちゃん」

「う……ん……」

 まぶたが開き、その大きな鼈甲色べっこういろの瞳が、天井てんじょうの蛍光灯の光を反射する。ホームセンターで買ったいちばん安い蛍光灯の光を。

 胸ポケットにしまっておいたメガネを、そっと白桃はくとうの肌にすべらす。

「見える?」

「ハイ、見えます」

「水、飲む?」

「ハイ」

 シエラが身を起こした。

「あっ、今、ダメ」

「え?」

 シエラの身をおおっていたタオルケットが落ちて、白い上半身があらわになった。絹の乳房が目の前に現れる。永遠に見ていたいと主張する本能と、およそ一秒間にわたる激闘を演じたのち、かろうじて勝利をおさめ、虚空に目をそらす。そして、天井を見ながら自分のパジャマとトランクスを手渡し、背を向けたまま、それを着るよう指示する。

 男物のパジャマを着たシエラは、長いそでを垂らし、ズボンのすそを引きずるのが面白いらしく、部屋の中を無意味に歩き回っている。

 そんな部屋の中の穏やかさとは対照的に、雨と風はますます強く雨戸をたたいている。

「シエちゃん、紅茶をいれたよ。一緒に飲もう」

「ハイ。ありがとうございます」

「オムライスもできたよ。炊飯器が小さくて五合分しか作れなかったけれど」

「オムライスですか。ヤバっ」

「キュウリは何本食べる?」

「何本あるんですか?」

「四本くらい」

「少なっ。じゃあ三本ください」

「三本?」

 シエラの前に、小さなティーカップと、大皿に盛った特大オムライスと、四本のキュウリを置いた。そして自分の座る席には、ティーカップのみを置いた。

「オムライスとキュウリ、食べないんですか?」

「うん、ぼくが食べたらシエちゃんの分が減っちゃうでしょ。そんなにお腹減っていないし」

「ええっ、一緒に食べましょうよー。どうせ五合と四本じゃシエラ全然足りませんから」

「そう言われてみればそうだね。じゃあ、もらおうか」

 普通の皿を用意し、オムライスを八分の一ほど取り分け、自分もキュウリを半分ほど食べることにした。

「いっただっきまぁす」

 シエラは大きなスプーンでオムライスをすくっては、小さな口いっぱいにほおばる。そして、左手に持ったキュウリを軽快な音でかじると、目を弓の形にして、お尻でバウンドする。

「雨と風、ヤバいですね」

 そう言いながら、シエラは大きな音を立てている雨戸の方を見た。洗濯ひもには、シエラの服とパンツとブラジャーと靴下が干してある。

「うん、すごいね。シエちゃんの住む世界には台風ってないの?」

「ありませんよ」

「ふーん。あのさ、シエちゃんがウサギになっている間に、いろいろ考えたんだけれど、ちょっと聞いてくれる?」

「何を考えたんですか?」

「シエちゃんの言っていたことの意味が分かったような気がするんだよ」

「シエラ、何を言いましたか?」

「親子の愛とか、友情とか、男女の愛とか、それから、肉体と魂についてとか」

「ああ、そういう話ですか。一人で考えてたんですね。聞きますよ」

 自分なりに理解したことを、言葉を選びながらシエラに話した。シエラはキュウリとオムライスを食べながら、時にうなずき、時に首をかしげながら聞いてくれた。


「どう?」

「ハイ、だいたい良いと思います。噴水の話はちょっと違いますけど」

「そうなの? まぁ、いいか。噴水の件は考え続けるよ。ただね、どうしても分からないことが、一つあるんだよ」

「何ですか?」

「それはね、どうしてシエちゃんがぼくの命を取ることにこだわるのかなってこと。前にも言ったけれど、人間なんて、何十億人もいるわけでしょう? 別にぼくじゃなくてもいいと思うんだよ」

「やっぱり、死にたくないんですか?」

「死ぬのはもちろん怖いけれど、覚悟はもうあらかた出来上がっていると思うよ。今話したように、生きることの意味ってぼくなりに分かったつもりだからね。あと、やっぱり人間とは反りが合わなくて、上手くやっていけそうにないし。ただ、なぜぼくなのかなってこと」

 シエラはスプーンを止めて考え込んだ。

「分かりました。もう話しても怒られないと思うので、話します」

「怒られるって、誰に?」

「そこのヒトにです」

「ええっ、ぼくに? どういうこと?」

「話す前に、紅茶のおかわりをお願いします。あと、さっきシエラがウサギだった時に飲ませてくれたの、もう一杯ください。ちょーヤバかったです」

「あ、ああ。ちょっと待って」

 胸のざわつきをおさえながら、二杯目の紅茶と二杯目の黄金比ブレンドの用意を始める。

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