第30話
外は、思っていた以上の雨と風が吹き荒れている。
XLサイズのウサギを抱えたまま手を挙げて、タクシーを止める。
「はい、どうぞ。どこまで行きますか?」
定年後も働かざるを得ませんと白髪の後頭部に書いてある運転手に、自宅のある町の名を告げる。
「こんな嵐の中で仮装パーティーかい? いいねえ、若い人は」
老人の観察力が低下していて救われた。
「いやあ、連れが酔って寝ちゃいまして、衣装を脱がせられませんでした。すみません、どうも」
「なぁんも、なんもだぁ。別にどんな格好しててもいいしょや。お客様は神様だもねぇ」
確かに神様の一種ではある。
「もし良かったら、これを使ってください」
年老いた運転手がタオルを貸してくれた。
「すみません。お借りします」
「なぁんも」
タオルはオイルのにおいがした。
フロントガラスを大粒の雨がたたいている。
ワイパーがフル稼働でその雨をぬぐっている。
狂った指揮者のタクトのようなそのワイパーの動きを見ながら、ああ、終わった、と思った。
もうダグザには戻れない。ダグザどころか、人間社会に戻れない。
明日になれば大騒ぎだろう。
シエラがウサギに変身する映像が、そして、カオスの中心でアイスピックを持って
そして、割れたガラスが散乱し、テーブルやら棚やらがひっくり返った店内の有様と、ぐなんぐなんになったウサギを抱きかかえ、ウォッカを撒き散らし、ライターをちらつかせながら立ち去る男の姿も。
自分の膝の上でスースーと気持ち良さそうに寝息を立てている巨大なウサギを見た。
酔ってしまうと、肉体からの緊急避難もできないのか、魂で語りかけても返事がない。
聞こえるのは、風の
オイル臭いタオルで、ウサギの顔についた水滴と、誰のものか分からない血ををぬぐった。ぬぐった瞬間借りたタオルであることを思い出し、頭皮が収縮したが、もう仕方がない。どうせシートにも血の跡が残るだろう。それにしても、ウサギのクセにちっとも温かくない。ウサギの姿になっても変温動物仕様は変わらないらしい。
今度肉体のレンタルを利用する際には、もう少し商品の品質に気をつけるべきだと、目が覚めたらきっと言ってやろう。
「はい、着きましたよ」
朝夕通っているコンビニの前にタクシーが止まった。本当はラブホにでも身を隠すべきなのかもしれないが、もはや投了は避けられない局面なので、開き直ることにした。それに、私には絶対的な逃げ場がある。
「ありがとうございます。おいくらですか?」
「四八二〇円です」
財布から与謝野晶子を一枚抜いて、運転手に渡す。
「お釣りは結構です」
「すんませんねぇ。家は近いのかい? 傘は?」
「家はそこの路地を入ってすぐのところです。傘はありませんけれど平気です」
「したっけ、家の前まで行きますよ。こんな雨なんだから」
「いえ。そこの道は一方通行で、戻るとき大変だからいいです」
「そうかい。遠慮せんでもいいのに」
こんな血の通った人が報われない世の中か。いや、だまされるな。善良に見えても根っこはあいつらと変わらないのかも。
そんな無秩序な思考をタクシーの中に置き去りにして、ウサギを抱えて大嵐の車外へと踏み出した。弾丸のような大粒の雨に横面をたたかれながら、二〇メートルほど歩いてマンションのエントランスに辿り着いた。たったそれだけで着衣水泳をしたかのごとく全身がずぶ濡れになった。
幸運なことに、エントランスから部屋まで誰にも出会わずに済んだ。まともな人は皆、家の中で息をひそめて、台風の通り過ぎるのを待っているのだろう。
部屋の電気をつけて、冷たいウサギを万年床に横たえる。びしょ濡れになった服を脱がせ、バスタオルで全身を拭く。ドライヤーで全身の毛を乾かす。ウサギを一旦脇に移動させて、濡れてしまった布団を裏返す。すっかり乾いたところでタオルケットを掛け、冷蔵庫から持ってきたミネラルウオーターを「人」の字の口の隙間に注ぎ込んだ。
それにしても、どうしてウサギなんだ。
ゾウではなく。クジラでもなく。
いや、待てよ。
それを言ったら、どうして自分は人間なんだ。
ミジンコではなく。大腸菌でもなく。
シエラは、自分には本来の姿などないと言っていた。あるのは念のみだと。
白いヒゲの先端についた水滴が、呼吸のリズムに合わせて揺れている。
ビルの上から身を投げた人の巻き添えを食って、死んでも構わない。
シエラに初めて逢った時、そう思った。
そう。死んでもいい。シエラと過ごせるのなら。
生きる死ぬというのは、単なる肉体の話なのだ。
そうか。
友情も、親子の愛も、男女の愛も、そして、経済も、政治も、科学も、さらに、仁も、義も、礼も、智も、信も、人間が価値を置くものは、そのほとんど全てが、肉体を維持するための方便に過ぎないのだ。
色々なことが、今つながったような気がする。
ウサギの口が、草を
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