第32話

「はい、どうぞ。紅茶と、さっきのコーヒー牛乳」

「ありがとうございます。あ。これですか、ヤバいやつ」

「うん。黄金比ブレンド」

「じゃあ、黄金の火の方から飲んでみます。いただきまーす」

 一口飲んで、シエラは首をかしげた。

「これ、違いますよ。さっきの方がおいしかったです」

「さすがだね。たぶんシエちゃんの言う通りだよ。当たり外れがあるんだ」

「ふーん。まあ、これも普通においしいからいいですけど」

「で、シエちゃん、さっきの話の続きは?」

「さっきの話って、何でしたっけ?」

「もう話しても怒られないだろうから話します、みたいなこと言っていたでしょ」

「そうでした。忘れてました。テヘペロ」

 そう言って、シエラは少し上気じょうきした顔で私を見つめる。

「テヘペロは新しいね、とか言ってくれないんですか?」

「え? レンタルボディーに初めからインストールされていた言葉でしょ?」

「違いますよ。メイドカフェで覚えたんです!」

「メイドカフェ? シエちゃん、女子一人でメイドカフェなんか行ったの?」

「違いますよ。働き始めたんです!」

「ええっ! 死神なのに?」

「あれ? 言ってませんでしたか?」

「聞いていないよ」

「ホストクラブで働いてるって自慢するヒトがいるから対抗したんです」

「誰がいつ自慢したんだよ」

「そこのヒトが会うたびにです」

「自慢なんかしていないよ」

「してました!」

「もう。分かったよ。自慢していました。ちょっとシエちゃん、お願いだから話の続きを早く聞かせて。急がないと本当にまずいから」

「最初から素直に認めればいいんですよ。では、エッヘン。ご主人様からぁ、命をもらえってぇ、シエラに命令したのはぁ、デケデケデケデケデケ……」

「早くして。誰だよ、ご主人様って」

「デデン! 実はご主人様自身なんですう。萌え萌え」

「え。どういうこと。ぼくが命令するわけないでしょ、そんなこと」

「するわけあるんですう。萌えキュ~ン!」

「まったく分からない。ちょっと分かるように説明してよ」

 表で風が不気味なうなり声を上げている。

「シエラがご主人様にこのお仕事を頼まれたのはあ、ご主人様があ、生まれる前のことなんですう」

「生まれる前? 生まれる前にどうやってシエちゃんに会って、まだ生まれてもいない自分の命を奪うことを、どうやってシエちゃんに頼めるの?」

「つまりい、ご主人様とシエラはあ、ご主人様が生まれる前からあ、知り合いだったんです~。ラブラブどっきゅーん!」

「ええっ。何が何だかさっぱり分からないよ」

「にゅ! 文句ばかり言ってると、話すのやめますよ。プンプン!」

「分かったよ。あまりに謎が深過ぎるからつい。もう余計な合いの手入れるのはやめるから、続きを聞かせてくれる?」

「じゃあ、話しますね~。生まれる前のご主…ヒッ!」

 風で何かが吹き飛ばされて来たらしく、雨戸が大きな音を立てた。

「うるさいですね! シエラは今大切なことを話そうとしてるんですよ! オコオコ!」

 雨戸に向かってシエラは怒鳴った。

「シエちゃん、台風とも交信できるの!?」

「それはさすがに無理ですう。テヘペロ」

「なんだよ、もう、びっくりするなぁ。それで、生まれる前のぼくが一体どうしたの?」

「じゃあ、ご主人様、シエラと一緒におまじないをしましょ」

「なんのまじないだよ」

「シエラが続きを話したくなっちゃう秘密のおまじないで~す」

「なんだそりゃ」

「まず~、手でハートを作りますう」

「は? 勘弁してよ」

「手でハートを作ってください。言うこと聞かないと話しませんよ!」

「わかったよ、もう……」

「にゃ。ご主人様、お上手〜! じゃあ行きましゅよぉ。ミラクルくるく〜るくる、オムライスケチャップあっぷっぷー! ご主人様の正体を言いたくなぁれ、萌えきゅんビームぅ!」

「きついな。びいむ。はぁ……」

「ダグザでーす! ハートばきゅ~ん!」

「はい?」

「生まれる前のご主人様はー、ダグザだったんでえす」

「どういうこと?」

「生まれる前のそこのヒトは、ダグザという名前の、神だったんです」

 急に温度が下がった。

「……え?」

「神様です。ダーナ神族の最高神です」

 天上で雷鳴がとどろく。

「ちょっ、待って。吐くかも」

「いいですよ、吐いて」

 渦巻くものをおさえながら流しに辿り着き、洗い桶の底と向かい合う。聞かせたくない汚い声が出てしまった。

「シエラも驚きました。そこのヒトが初めてダグザって言った時は」

「ちょっと、下からも漏れた」

「言わなくても音とにおいで分かります。ダグザって聞いた時はビックリしました。記憶が戻ったのかと思って」

 人が吐いたり漏らしたりしているのに、そよ風ほども気にせずにシエラは続ける。

「普通、人間になってる間は絶対に思い出さないはずですから」

「ふぅ……。なら、生まれる前の記憶を、ぼくは今、失っているってこと?」

 コップに水道水を注ぎながら問う。

「そうです。さすがにダグザレベルの神だと思い出しちゃうのかなって、あの時はヤ~バって思いました」

 水で口をすすぐ。

「ちょっとパンツ替えてきていい?」

「ええ! うんこ漏らしたくらいでわざわざですか?」

「うんこ漏らした時に替えないで、いつ替えるんだよ!」

「じゃあ早くしてきてください。神経質なヒトですね、まったく」


 洗い桶の中身をトイレに流す。

 ウォシュレットで尻を洗いながら目の前に見ているのは、見慣れたいつもの壁だ。

「ダグザレベル……。はぁ……」

 キッチンのテーブルに戻る。

「遅いですね。お尻が何個あるんですか」

 私のパジャマを着たシエラは、座ろうとする私の尻をたたく。

「痛いなあ。一つだよ。シエちゃんとぼくは、その頃どんな関係だったの?」

「ダグザは豊穣ほうじょうと再生をつかさどる神で、シエラは死を司る神です。つまり、二人のお仕事は正反対なんですけど、何億年も前からチームなんですよ」

「何億年も……」

「ハイ。命のバランスをとることが二人のお仕事ですから。人間についても、サルと枝分かれした時から、二人でずっと見守ってきたんです。人間は昔、マジで弱い生き物だったので」

「えっ。弱かったの?」

「今も丸裸なら弱いままですよ。戦闘能力は低いし、木に登るのも下手くそだし、走るのも遅いし、皮膚は転んだだけで破けるほど薄っぺらいし、細菌やウイルスにも簡単に負けちゃうので、弱すぎーって思って二人とも最初はドン引きしてました」

「ああ。そういう弱さか」

「そんな人間が、一人ひとりの弱さを補い合うために群れを強化して社会を作り上げ、弱い個体でも生きていけるように文明を築きました。その様子を見て、初め二人はオッケー、やるじゃん!…って思ってたんですよ」

「社会とか文明って、そういうものだったのか……」

「ところがやがて、簡単には死ななくなった人間のキモいうぬぼれが始まりました。人間の増長はついに、ダグザがヤバって思うところまで来てしまったんです。そしてダグザは、人間を知るために、また、人間という毛のないサルのさばき方を決めるために、一度自分自身がその裸のサルになってみる必要があると考えたんですよ」

「ダグザという神が自分自身で人間になることを決めて、それで生まれてきたのが、日本人のこのぼくなの? 自分で言うのも変だけれど、ぼくって、ものすごく普通の人間だよ。いや、普通っていうのはちょっと背伸びしているな。普通以下かも」

「どっちでもいいです。シエラたちは人間なんて金太郎あめみたいなものだと思ってますから。たとえば人間も、ミミズに対しては偉いミミズとか平凡なミミズとかって区別してませんよね」

「うん」

「それと同じです」

「人間とミミズが同じなの?」

「ハイ。人間って、ダグザやシエラから見ると、ちょーバカなので」

「でも、さっきシエちゃんも言っていたように、高度な文明を生み出して、原子力を発見したり、火星に探査機を飛ばしたり、人工知能を開発したりしているよ。動物の中では結構賢い方だと思うんだけれど」

「次元が違い過ぎます。これから先、人間がどんなに文明を発達させたとしても、ミミズはミミズ、ホモサピエンスはホモサピエンス、大して変わりません」

「うーん、さすがに納得がいかないな」

「てゆうか、文明を手に入れてしまった分、人間はミミズよりヤバいんですよ」

「何がヤバいの?」

「想像力の獲得と農業の発明がヤバさの根っこにあるんですけど、特にヤバいのは科学が異常なペースで進歩したこの三百年です。鉱物も生物も好き勝手に使い散らかして。群れと群れの争いで、狂った武器を撃ち散らかして。人間のせいで、地球と、そこに住む生き物たちがどれほど傷付けられてるか分かってますか?」

「分かっているけど……」

「分かって、何をしましたか?」

「レジ袋はなるべくもらわないとか、ゴミを分別するとか」

「あとは?」

「うーん、それくらいかな。あとは特に何も……」

「それで、自分だけは善良な人間だと思ってるんでしょ。人畜無害とか言っちゃって」

「うん、まぁ。シエちゃんには心の中を読まれているから、反論のしようもないな」

「その状態を確認するために、ダグザは人間になったんですよ」

「その状態?」

「自分がどれほど愚かなのかが分からないほど愚かな状態です」

「厳しいな。それで、ダグザはわざわざ人間になると決めておきながら、どうして自分を殺すことをシエちゃんに依頼したの?」

「グズグズしてると、取り返しのつかないことになってしまいますし、研究の目的も明らかだったからです。それを達成するには三〇年ほどあれば十分だと思ったんでしょ。そこのヒトはあと三年くらいで三〇歳ですよね」

「うん」

「だからそろそろお仕事の時間だなぁって思って、シエラ降りて来たんですよ」

「三〇歳でぼくは死ぬの?」

「オジサンが自分でそう決めたんですよ」

「ぼくが、自分で……」

「実は、その時に頼まれてたことが、もう一個あるんですよ」

「三〇歳で殺してくれということ以外に、シエちゃんに頼んだことがもう一つあるの?」

「ハイ。せっかくだから、命を取る時は一個実験をしてみてくれって」

「実験?」

「死ぬことを何より恐れる人間が、自分から喜んで死ぬようにできるかどうか、面白いからちょっと試してみてくれって」

「ぼくが、喜んで……」

「ダグザの遊び心です」

「そんなこと、言っちゃっていいの? いわゆるネタバレじゃない?」

「ヤバかったですかね?」

「知らないよ、ぼくに訊かれても。それより、一つ訊いてもいい?」

「何ですか?」

「ぼくは、死んだ後も、シエちゃんに逢えるの?」

「逢えますよ」

「何回も?」

「ずっと一緒です。ダグザとシエラは宇宙そのものですから」

「宇宙そのもの? なんだかよく分からないけれど、ずっと一緒にいられるのなら、この命、シエちゃんに預けてみてもいいような気がする……かも」

「それじゃ、これからデートしましょ」

「外は大嵐だよ」

「じゃあ、小嵐になったらデートしましょ。いっぱいデートして、地球のいろんなとこ、二人で見に行きましょ」

「あのさ、言いにくいんだけれど、もうこの世界で生きるの難しいと思うんだ、二人とも」

「どうしてですか?」

「シエちゃんがウサギに変身するとこ、思いっ切りテレビカメラに撮られた」

「ウケる」

「あと、ぼくが人生で最大のキレ方をして、店で大暴れするところも」

「ええ! オジサンがキレたんですか?」

「うん。自分でも驚くほどキレた。明日には二人の映像が全国に流れて、大変な騒ぎになっていると思うよ。今ここに警察が踏み込んで来てもおかしくない。実際にそうなっていないのは、相手にもやましい点があったからなのか、台風のお蔭なのか分からない」

「マジでウケるんですけど」

「全くウケないよ。どうするつもり?」

「じゃあ、今日で終わりにしますか」

「今日で終わりにするって、つまり、……」

「今日これから死ぬっていうことです」

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