第26話

 夕闇に覆われた沼の上に、長い木の板が渡されている。その上を、パジャマ姿で一人私は歩いている。足元は暗くて、よく見えない。沼の奥には、光に包まれたドイツの古城のような建造物が見える。

 時々、木の板を向こうから歩いてくる人とすれ違う。その都度私は冷たい目でにらまれるようだ。パジャマが彼らを不快にさせるのか。私は平静を装い「失礼」などと言いながら、板の端の方に身を寄せる。

 果てしなく続くかと思われた板を渡り切ると、そこには、いたずらに巨大で傲然ごうぜんとしたパチンコ屋がそびえ立つ。私は何の感慨も持たぬまま、光に吸い寄せられるようにして、その店内に入る。天井てんじょうは、かすんで見えぬほど高く、タバコの煙の漂う空間には、バロック音楽が無機的に流れている。床の上には、沼から上がって来たものと思われる橙色だいだいいろのカエルがそこかしこを歩いている。中にはずいぶん尻尾しっぽの長いものもいる。間違えて沼から上がってしまったのであろう灰緑色はいみどりいろのオタマジャクシが一匹、白い腹を上に見せて死んでいる。

 店員は皆、中世ヨーロッパの貴族風の衣装に身を包んでいる。どうせ貸衣装だろうと、パジャマ姿の私は負け惜しみによって自己防衛をはかる。母の形見である財布から、よれた千円札を一枚抜き取って、店員に「玉を買いたい」と言ったときに、それが止まれであることに気が付いた。「そのせつはどうも」という自分の声が、相手の機嫌を取るための高めのトーンになっていることに、己の弱さを再確認する。

 止まれはまぶしそうな目で私を一瞥いちべつすると、あごで玉の販売機の所在を示した。それは滑稽こっけいなほど近くにあった。止まれは大仰おおぎょう嘆息たんそくして私から離れると、他の店員に耳打ちをし、こちらを見てニヤニヤと笑った。止まれのかたわらに立っている店員は、副社長であった。

 販売機に、くたびれた千円札を投入すると、玉がわずかに三個だけ転がり出た。いくらなんでも千円で玉が三つだけという法はなかろうと思い、副社長に機械の故障ではないかと訴えたところ、文句があるのなら出て行けと低い声で言われた。

 仕方なく、三個の玉を持って、人の座っていない台の中から、特にわけもなく一つを選び、椅子の上にカエルがいないことを確認して用心深く腰かけた。ふと隣を見ると母が座っていた。母もパジャマを着ていたので、少し安心した。私は、「ほら、母さんの財布」と言って、母にそれを見せた。母は、「ああ」と言ってそれに土色つちいろの手を伸ばした。母の声は非常に弱弱しかった。体もせて、息をすることさえつらそうであった。「母さん、パチンコなんかやめて帰ろう」と私は言ったが、母は動くことを拒んだ。その割にパチンコをするわけでもなく、ただ機械と向かい合って乾いた咳をしている。「そう言えばお前、ここには立派なお風呂もあるらしいよ」と、母が咳の合間に、さも大層なことのように言う。死んだ母に入浴する体力はもうなかろうと思ったが、頭ごなしに否定するのも気の毒に思い、「そう。それは魅力的だね」とだけ言った。そして、三つの玉を投入口に入れ、「母さん、一緒にやってみようよ」と、屈託のない声を作って言った。ジオンに学んだ処世術を、みょうなところで使ってしまった。母は私とよく似た歯並びを見せて、顔の半分だけで笑う。母の痩せて乾燥した手に、私の手を重ねて玉をはじくと、三つのうち二つまでは、盤面の一番下にあるつまらない穴に吸い込まれていった。残りの一つだけが、盤面の四時半の位置にある、小さなポケットに入った。チーンッと、当たりを思わせる音が鳴ったことに、かすかな喜びを感じる。母の反応を確認すべく横を見ると、吐息を揺らす気配もなく、相変わらず、まぶたすら重そうにしている。ひどい加齢臭と死体の腐敗臭が鼻の奥を突く。「やっぱり母さん帰ろうよ」と私はあせり気味に言った。死んだ人間に、やはりパチンコは無理だった。母の命は尽きているのだと改めて思った。それにしても、人は死んだ後も多少なら動けるし、しゃべれるものなのだな。そう言えば火葬した記憶がない。うっかり燃やすのを忘れていた。だからなのか。

 母の死には、やましい思いが付きまとう。「母さん、ごめんね。死ぬときにそばにいてあげられなくて」そう言いながら、私は子供のようにわんわんと泣いた。母は何も言わない。そして、きつねの目で私を見る。ああ、やはり母は怒っていたのだ。清算のつもりで流した不純な涙は、行き場を失った。先ほどのチーンッという音から文脈を見失うほど遅れて、玉の出るはずの窪んだところから、明らかに使用済みの歯間ブラシが三本すべるように落ちてきた。こんなものにまで地球の引力が働いているのかと、その勤勉さに感心した。

 脇を見ると、母はもう、一本の巨大な鰹節かつおぶしになっていた。本格的に死んだのだと私は理解した。私は三本の歯間ブラシを指先でつまんでにおいをかぎ、その行為の意味のなさを自虐的に笑った。三本の歯間ブラシを線香のように立てようとしたが立たなかったので、鰹節の上に横たえた。そして、母を置き去りにすることの後ろめたさを、もう鰹節になったのだからという理論武装によって押さえ込み、パチンコ屋を出た。いや、出ようとした。出ようとしたのだが、足が石臼いしうすのように固まって動けない。私の意志は、一億分の一も自分の足に伝わらない。あまりに足が重いので、歩くことはあきらめた。仕方なく四つん這いになり、アザラシのように腕の力だけで下半身を引きずって、少しずつ前に進むことにした。気付けば、床は夥しい数の橙色のカエルによって、隙間なく埋め尽くされている。ぬめぬめとして気持ち悪いが、彼らが潤滑油の役割を果たしてくれていると肯定的にとらえることもできる。気の毒だが、途中多くのものが石臼の重みの下にひかれて犠牲になる。それが彼らのごうなのか。何もカエルに生まれたくてそうなったわけではあるまいに。高くて暗くてかすんでいて見えない天井から降ってくる、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『G線上のアリア』が切ない。


 途方もなく長い時間をかけて店の外に出ると、来たときに沼だった場所は、すでに砂漠式さばくしきの駐車場になっていた。何台かの車が、絶望を通り越した余裕すら漂わせて、砂の中に埋まっている。中にはまだ悟りを開けぬままにアクセルを踏む者もあるが、当然その場で無駄に車輪を回転させ、砂をまき散らすのみで終わる。

 砂漠を照らす外灯が不必要に明るくて、その光を求めてカブトムシやら、クワガタやらが群れている。虫好きの少年だった私には夢のような光景だが、それらに交じってスズメバチやタランチュラなどの危険な生物もいたので、近寄ることをためらっていると、玄関のチャイムが鳴った。


 昨夜はパジャマに着替える気力も残っていなかったようだ。タバコと酒のにおいのしみついた衣装を着たままの体を持ち上げ、天井の蛍光灯がビカビカと照らす室内を、よろけながら三足ほど歩いてインターホンに出た。

「はい、どちらさまですか」

 どちらさまですか、とは恐ろしく無意味な問いかけであることは分かっていた。

「シエラです」

 もう四度目か。いや、五度目になるか。

「勘弁して。もうきみには逢わないって何度言ったら分かるの」

 そう言い捨てて、受話器をフックに戻した。

 しかし、これもまた無意味な行為であると分かっている。


 ―― そこのヒト。あなたはもう完全に包囲されています。無駄な抵抗はやめて出て来なさい。あなたのお母さんは、泣いてますよ。


 これだ。この通りだ。テレパシーで心に直接話しかけるというこの飛び道具は、耳をふさいでも布団をかぶっても防げない。


 ―― ちょっと、シエちゃん。人の夢をのぞき見するの、お願いだからやめてくれないかな。


 ―― お母さんを勝手に殺しちゃって、いけないんだぁ。それにお母さん、まだそんなお年齢としでもないですよね。


 ―― うるさいな。夢は、そんなに現実に忠実じゃなくてもいいんだよ。


 LINEを削除しようが、インターホンを破壊しようが、シエラにこの手が残っている限り、私は永遠にこの死神から逃れられない。

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