第24話

 朝からセミがうるさい。

 二十一世紀の東京の暑さは、百年前のクアラルンプールを上回っているのではないかと思う。地球温暖化はもはや歯止めがかない。今この瞬間にも氷河が融解ゆうかいしているのだろう。

 暑くてだるくて、今日は何だか腹の調子も良くないので、動きたくない。変温動物のシエラには悪いが、夏の廃止を本気で主張したい。季節は春秋冬の三つだけにしてもらえないものか。寝床でセミの大合唱を聞きながら、エアコンに向けてリモコンのスイッチを押す。この行動が温暖化を助長すると分かってはいながら、それをやめられないのが人間のごうの深さである。

 シエラが頭にかぶっていた紫色のパンツが、エアコンの風を受けて静かに揺れ始めた。

 紫と言えば、袱紗ふくさ数珠じゅずはどこにしまっただろう。

 今日は、葬儀に出ねばならない。ダグザの社長が亡くなったのだ。まだ一度も会ったことがないというのに。ジオンの話によると、豪快できさくな人だったらしい。

 葬儀場はずいぶん不便なところにあるというので、昨夜みんなで話し合い、最寄りの駅で落ち合って、タクシーに相乗りして行こうということになった。社長が亡くなったのだから、ダグザは臨時休業かと思いきや、葬儀の後、シフトに入っている者は、タクシーで店に急行して勤務するのだという。私もシフトに入っていたので、衣装を持って行かねばならない。


 駅の改札に着くと、すでに知っている顔がいくつか見えた。厨房ちゅうぼうで働いているマレーシア人のアフマドまで来ていた。社長の人望の厚さがうかがえる。

 皆、喪服を着て黒いネクタイを締めているが、眉は細いし、髪は金持ちの子のクレヨンほどにカラーバリエーションが豊富なので、一般の人たちは皆不審ふしんそうな顔をして、横目でチラチラとうかがいながら一団の脇を通過する。

「では、三四人くらいずつに分かれて、そろそろ行きましょうか。運転手さんに斎場さいじょうの名前を言えば通じるみたいです」

 副社長の指示に従って、集団が動き始める。

「フクシャチョウ、ナニイッタ?」

 歩きながらアフマドが尋ねてきた。

「一緒に、タクシーに乗って、行きましょう」

 ジェスチャーを交えて、一音一音ゆっくりと発音してアフマドに伝えた。

「オーケー」と言って黄色いすきっ歯を見せて笑い、アフマドは私の肩をたたいた。

 結局、ジオンとアフマドと私の三人で、一台のタクシーに乗った。「失礼ですがどういうご職業ですか」とタクシーの運転手に尋ねられると、ジオンは「弁護士です」とつまらない嘘をついた。それを本気にしたアフマドから質問攻めにされ、ジオンが適当な嘘を返しているうちに、タクシーは葬儀場に到着した。

 葬儀場のスタッフの指示に従い、エレベーターで二階に上がる。そのフロアには、すでに大勢の参列者がいて、開場を待っていた。アフマドは、周りのホストをつかまえては、その一人ひとりに、ジオンが弁護士であるむねを根気強く伝えている。

 やがて式場のドアが開かれ、葬儀会社のスタッフの誘導に従って、親族から順に中へと入り始めた。私たちは、前の方にいると主役よりも目立ってしまうので、最後に入ることにする。

 式場に入ると、圧倒的な存在感を持った祭壇が、視界のほぼ全域をおおった。そして、祭壇の中央に設置された故人の遺影を見た時、全身の毛穴が一斉に開くとともに、脳が委縮するのを感じた。

「ケンちゃん……」

「なんだおまえ、社長のこと知らねえって言ってたのに」

 ジオンが私の顔を横目でうかがいながら小声で言った。

「知らないと思っていましたが、偶然知っていました。歌舞伎町の岩盤浴で、かする程度に」

「そうか。社長は岩盤浴が好きだったからなぁ」

「私がダグザで働き始めたのは、それより後です。あの方が社長だったとは全く……」

 前の席に座っていた蘭丸が、後ろに身をよじって、こちらを向いた。

「あの時レオンさん、社長に会ってたんスか」

「はい。蘭丸さんに会う少し前のことです」

「レオンさんのカノジョが凍って倒れた時ッスね」

 そう。分かっている。

 またシエラの仕業しわざだ。

 シエラと関係のあった人たちが、次々と死んでいく。

 僧侶の読経が始まった。

 止まれの腐ったサッチモの声が、脳裏によみがえる。

 ニコチン含有率一〇〇パーセントの息のにおいが、線香の匂いとからみ合う。

 アロハを着たケンちゃんの、強面こわもてなのに人懐ひとなつっこい笑顔が思い出される。

 しかし、みょうだ。

 あの時ケンちゃんは確か、五年ほど寿命が縮まった、怖いからシエラにはもう逢わない、と言っていた。それならば、このタイミングで亡くなるというのはどういうことだろう。元々ケンちゃんは、寿命が短かったということなのだろうか。

 止まれも、シエラに逢い始めてから、わずか三週間程で死んでしまった。

 どうも腑に落ちない。

 もしかして、一回のデートで呼吸五八八万二三五三回分寿命が縮まるというのは、嘘なのではないか。本当はもっと大幅に縮まっているのかもしれない。もしそうだとすると、実は私の死も、知らぬうちに目の前に迫ってきているのかもしれない。そう考えると、線香の匂いに突然胸が悪くなり、猛烈な吐き気に襲われた。

 焼香の順番が寸前まで近付いてきていたが、急いで式場を出てトイレに走った。そして、いちばん近い個室に駆け込むと、便器におおいかぶさるようにして嘔吐した。暑いのに、全身に鳥肌が立った。吐く時に、ゆるい便が少し漏れてパンツを汚してしまった。幸いズボンは汚れずに済んだので、パンツを脱いで直接ズボンをき、体を引きずるようにして席に戻った。

 ジオンに「どうした」と問われ「何でもありません」と答えたが、それは決して場に対して気をつかったからではなく、とても事態を説明できるような情緒ではなかったからである。

 目の前の祭壇に自分自身の遺影の飾られる光景が、網膜の裏に映し出されていた。視界がゆがんで、もうそれがまぼろしなのか現実なのかが分からない。

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