第23話
「シエちゃん?」
「ハイ」
「ちょっと待ってて。今、行くから」
牛の夜のことを考えれば、起こり得ることだった。念の存在をとらえることのできるシエラにとっては、私の居場所など、GPSを使わなくとも簡単に突き止められるに違いない。
裸足のままスニーカーを踏み、鍵を解除してドアを開ける。
ドアの向こうには、ライトイエローの
「シエちゃん」
「こんにちは」
「よく分かったね、ここ」
「路地で少し迷いました」
「LINE、返信しなくてごめん」
シエラは下を向いたまま、
やがて顔を上げたシエラの、メガネの向こうの瞳が、
シエラは「ハイ、これ」と言って、なぜか私に籠バッグを預ける。
と、次の瞬間、
「エイっ」と叫び、私の
「痛たたたた。やめて。痛い、痛い、痛い」
「痛いように握ってるんです」
「やめ、やめ、やめて。痛たたたた」
シエラは口を「v」の字にして、私の顔を見上げながら睾丸を握り続ける。
潤んだ瞳は何だったんだ。
睾丸は骨にも筋肉にも守られていない、むき出しの臓器だ。たとえ攻撃可能であっても攻撃しないという紳士協定は、地球外では無効だったか。
私はその
シエラはしばらくバタバタと抵抗していたが、やがて観念して力を抜いた。
睾丸も、鷲の爪から解放されて、ようやく一息ついた。
シエラは、私の腕に抱かれたまま、ずれたメガネを私のあごを使って直している。
ライムの吐息を首筋に感じる。
ああ、この感覚、懐かしい。
「シエちゃん」
「何ですか」
「大好きだよ」
「シエラは、大嫌いです」
私は両腕に再び力を込めた。
「このまま抱きしめて、殺してもいい?」
「やれるものなら、やってみてください」
私はパステルカラーの死神を抱いていた腕を解いて、籠バッグを持ち主の手に返すと、その肩を両の手のひらで包んだ。
メガネの向こうの濡れた瞳に、表面張力を感じる。
唇の光沢が
自分の口内では、唾液が
先ほど攻撃を受けた箇所も、
理性とは何だろう。
もう宇宙の法則に逆らうのは、やめにしようか。
そう思って、本能の命ずる運動を始めたところ、目標物となっていた光沢が、急に軌道から外れた。
「ダメです」
宇宙の力が、突然解除された。
「ぼくのこと、嫌いなの?」
「さっき言ったじゃないですか、大嫌いって。キスはしません」
「どうして?」
「どうしてもです」
「どうしてもって……」
いきなり行く手をふさがれたため、
「そう言えばさ、前から思っていたんだけれど、シエちゃんて、ぼくの名前を一度も呼んでくれたことがないよね。いつも、オジサンとか、そこのヒトとか言って。ぼくは、名前で呼んでもらいたいのに」
見苦しいと思いながらも、以前から抱いていた不満が、つい漏れ出てしまった。
「それも、ダメです」
「どうして? キスをしたくないというのならまだ分かるけれど、名前を呼んで欲しいって言っているだけなんだよ、ただ」
「キスと同じです。名前もダメです」
「岩盤浴で、ケンちゃんて人のことは、名前で呼んでいたでしょう」
「そんなふうに言われても、困ります。名前は、呼べません」
その冷たい頬を、平熱三十六度九分の両手で包み、不発に終わったエネルギーの全てを目の筋肉に込めて、神の造形のごときものを網膜に焼き付ける。
「お部屋に、入れてくれないんですか?」
「あ、ああ。ごめん。いいよ。どうぞ、入って」
「ありがとうございます」
シエラを部屋の中へと招いた。
自分以外の者がこの空間に入るのは、
「汚いお部屋ですね」
あの女性が残していったスリッパを
「シエちゃん、少しは嘘を覚えてね」
シエラは文字通り足の踏み場もない部屋の中を、珍しそうに観察している。
私はキッチンで紅茶をいれるための準備をする。コンロに火をつけてお湯を沸かし、いつかこんな日が来るかもしれないと思って用意しておいたアールグレイを、棚の奥から取り出す。
シエラを見ると、部屋干しした洗濯物のにおいをかいでいる。
「やめて。そんなお姫様みたいな顔して、変態オヤジのまねをするのは」
「つまんない。あんまり臭くないです」
「あんまりって何よ、もう……」
窓から光がさして、洗濯バサミに
ああ、幸せとは、こういうことなのかもしれない。
しかし、シエラには、言わねばならないことがある。
「紅茶をいれたよ。こっちに来て一緒に飲もう」
「ハイ、ありがとうございます」
パープルのボクサーパンツをベレー帽のように斜めにかぶって、シエラはダイニングの椅子にすました顔で座った。
「また。やめて」
シエラの頭から自分のパンツを取り戻そうとしたが、当然のごとくシエラは抵抗した。にわかにパンツの争奪戦が勃発した。両者一歩も譲らず、
「しつこいですよっ」
パンツを引っ張りながらシエラが言った。
「どっちのセリフだよっ、まったく」
パンツを握るシエラの両手の指を一本ずつ開かせ、やっとの思いで
「わ。アールグレイですね、これ」
「そうだよ」
「シエラも大好きなんですよ、アールグレイ」
「知っているよ」
「え! 知ってるんですか。さてはシエラのストーカーですね」
「否定はできないね。シエちゃんのことが好きなのは確かだから」
「ウザっ。キモっ。ミルクはありますか?」
「あるよ。はい、これ」
「ありがとうございます。ウ~ン、いい香り。いっただっきまーす」
「どうぞ。このフォカッチャもよかったら食べてみて。ぼくが焼いたんだよ」
ダグザでの話題の一つにでもなればと思って、焼いてみたフォカッチャだった。
「この茶色っぽいのがきのこで、こっちはガーリック。赤いのが明太子で、緑は枝豆。チーズは全種類に入っている」
「ヤバっ。泡吹いて死にませんか?」
「失礼だね。心配なら食べていただかなくて結構です」
「ああ、食べます、食べます。今のはレンタルボディーから勝手に出たセリフです。シエラの胃袋は、わりかし丈夫ですから」
「それも知っているよ」
シエラは「マズい、マズい」と言いながら、九〇枚ほどあったフォカッチャをペロリと平らげた。相変わらずの食欲だ。食べたものは、この細い体の一体どこへ行ってしまうのだろう。そんなことを考えていたら、なぜかこちらが便意をもよおしてきた。
「ごめん。ちょっとトイレに行ってくるね」
「トイレですか。じゃあシエラも行きます」
「シエちゃんも行きたかったの? じゃあ、お先にどうぞ」
「そうじゃありません。シエラは何も出ませんから」
「え? じゃあ、どういうこと」
「出るとこ見たいんです。見せてください」
「ええっ。冗談でしょ?」
「冗談なんかシエラ、生まれてから一度も言ったことありません。おしっこですか。うんこですか」
「たぶん両方だよ」
「じゃあダブルプレーですね」
「いつどこで覚えたの、その言葉は」
「忘れました。早く行きましょ、トイレ」
「本気なの? 大変な変態だな、シエちゃんは」
「変態じゃありません。ただ男の人がおしっこやうんこをしてるところを、まばたきもせずに至近距離から見たいだけです」
「人間の世界では、それを変態というんだよ」
「そこはどっちでもいいです。早く行きましょうよ」
シエラは私の肘を両手で引っ張った。
「じゃあ、我慢するよ」
「え。どうしてですか?」
「どうしてって当たり前でしょう。普通そういうのは、人に見せないものなの」
「本気で言ってるんですか?」
「うん」
「考え直すなら今ですよ」
「考え直しても変わらないよ」
「いつからそんなにつまらないヒトになっちゃったんですか。見損ないました。もう帰ります」
シエラは冷蔵庫の上に置いてあった籠バッグを抱えると、スタスタと玄関に向かった。
「え。帰っちゃうの? そんな理由で?」
椅子から立ち上がってシエラを追った。
「もう、シエラのこと嫌いになったんでしょ。LINEも無視するし。ちょームカつく。せっかく殺してあげようと思って来たのに」
「殺してあげるって……」
「一〇〇歳まででも、一億歳まででも勝手に生きてください。もう知りません。さよなら」
サンダルを爪先で履いてドアを開けようとするシエラの手首をつかみ、どうにか突進を止めた。
「ちょっと待ってよ。いろいろと話したいことがあるんだよ。あの警備員のこととか、ダグザのこととか」
「えっ……」
吐息のように一声漏らすと、シエラは急に脱力した。そして、人殺しの現場を目撃してしまったピザ配達人のような顔をして振り返ると、私の顔を頭蓋骨の奥まで見つめた。
「思い出しちゃったんですか?」
「え。何を」
「思い出して、ないんですか?」
「だから、何を」
「シエラの、ことを」
「何を言っているの。思い出すも何も、シエちゃんのことを忘れるわけがないでしょ。どうしちゃったの、シエちゃん」
「……。なんでもないです。シエラの勘違いだったみたいです。ダグザって何ですか?」
「ああ、聞いてくれる? じゃあ、テーブルに戻ろうよ」
「ハイ、戻りましょう」
シエラはダイニングに戻ると、籠バッグを再び冷蔵庫の上に置いて、私の腕を取った。
「じゃあ、話の前に、二人でトイレに行きましょ」
「ええっ、結局そこに戻るの。今の騒ぎで止まっちゃったよ。もうしたくないよ」
「心配ないです。トイレで座ればきっと出ますよ。行きましょ。ほら、早く、早く」
結局、トイレまで連行され、親にしか見せたことのない行為の一部始終を、丹念に観察された。まだキスもしたことがないというのに、飛躍し過ぎなのではなかろうか。しかも飛躍の角度が新し過ぎる。しかしシエラは、「わー」とか「きゃー」とか「おっ」とか「へぇ~」とか言いながら、大いに
止まれの件について訊こうとしたが、また格闘技の個人レッスンが始まったり、牛乳を口に
今後シエラとのデートを控えたい、という話もできなかった。
ホストになってしまったことを報告したら、
今日も呼吸五八八万二三五三回分、命が縮まったようである。これでは押し売り同然ではないか。
「また来ますね」と言うので、「二度と来ないで」とこたえて見送った。
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