その⑦
あの場所から二キロほど歩いた、日当たりの悪い住宅地に、五十嵐伊織が住む1LDKのアパートはあった。周りを高い建物で囲まれて、日当たりが悪い。鼻の奥をくすぐる黴っぽい臭い。部屋の扉の前の通路の手すりには赤さびが浮いている。
「ほら、この部屋」
葬式のようなどんよりとした空気を進んで、部屋の前に立った。
彼女らしい、二、三日分の朝刊が詰まり、黄砂で薄汚れた扉。それを、鍵を使って開ける。
「入って」
部屋の中は、至って普通だった。
玄関には、五十嵐伊織のスニーカーとサンダルがちょこんと並んでいる。顔を少し上げてキッチンに目を向ければ、コンロの横のまな板の上に、昨日食べたと思われるお碗と、茶漬けの元がそのままになって放置されていた。
市指定の白いゴミ袋には、ウイダーインゼリーやカロリーなどの味気の無い食事ばかりが捨てられている。
「うへえ、お前の生活態度がわかるな」
「観察ばっかりやってるからね、ゼリーとか、茶漬けみたいな、さらっと食べられるものしか好きじゃない」
「まあ、僕もそんなもんだけど」
五十嵐伊織は「なんか飲む?」と言って、冷蔵庫を開けた。しかし、中に入っていたのは、ミネラルウォーターとウイダーインゼリーのみ。
「じゃあ、水で」
「あいよ」
五十嵐伊織は、冷えたミネラルウォーターのボトルをこっちに投げて寄越す。
「感謝なさいよ。それは、圭太君が大好きな、富士山系の天然水だから! 飲んだらあんたも圭太君になっちゃうよ!」
「ゴキブリになるのは嫌だな」
そんでもって、周りから目の敵にされて叩きつぶされるのは御免だった。
まあ、五十嵐伊織の戯言だと思い、キャップを開けてぐいっと飲む。
「あーあ、飲んじゃったね! あんたも今日から圭太君だよ!」
「何を言っているんだ?」
水分補給を終えると、僕は五十嵐伊織に案内されて、奥の部屋に入った。
これもまた、一般的な女の子の部屋だった。
一人用のベッドには、ファンシーなデザインのシーツと布団が掛けられている。
テーブルの上は、大学の教科書やノートが積み重ねられて置いてあった。
「ええと、写真は…」
五十嵐伊織は、部屋の壁際の机の上に置いてあるノートパソコンをスリープから復帰させると、マウスを動かしてファイルを開いた。カチカチと、大量にある内蔵写真の中から、あのお宝写真を探す。
彼女が写真を探している間、僕はおもむろに、本棚にあったクリアブックを抜き取った。
少年ジャンプのワンピースを立ち読みするような感覚で、クリアブックをパラパラと捲る。表紙に「圭太君写真集」とあるように、中には、あのゴキブリを盗撮した写真が何十枚何百枚、いや何千枚とファイリングされていた。
ページ一杯に写るゴキブリの顔に、思わず吐き気が催す。
そのタイミングで、五十嵐伊織が声をあげた。
「あ、あったあった!」
「お、見せて見せて」
五十嵐伊織のパソコンを、横から覗き込む。
液晶には、まだ白く消されていない佐藤恵奈の写真が表示されていた。
「これだよこれ。これをくれよ」
「はいはい」
五十嵐伊織はめんどうくさそうに頷きながら、「印刷」の部分をクリックした。
「アバズレのためにプリンターのインクを使うこと自体が気に入らないわね」
机の下の隙間に収納されたプリンターが、細かく揺れ始め、排出口から、写真がはがきの裏に印刷されて出てくる。
「ほら、まだ乾いていないから、そっと持ちなよ」
「ああ、うん、ありがとう」
僕は写真を受け取った。隣のゴキブリが邪魔だが、やっぱり美しいなあ…佐藤恵奈は。撮影したのが、朝だから、まだ目元がボケっとしている感じがいい。すごくいい。
帰ったら、ゴキブリの部分だけ修正液でも塗りたくって消すか。
そんなことを考えて写真を見つめていると、不意に、五十嵐伊織が僕の脇腹を「ねえねえねえ」と突いた。
「ん? どうした?」
「これ、見てよ」
パソコンの液晶を見る。インターネットが開かれていて、そこには先ほどみたものと同じ、赤いスポーツカーの写真が表示されていた。
「スバルのインプレッサね」
「すばるのいんぷれっさ?」
生憎、僕は車には詳しくないんだ。うちの父親が乗っていたヴィッツしかわからない。
五十嵐伊織は、よくわからないところで頬を染める。
「いやあ、すごいなあ。圭太君、こんなかっこいい車乗っているんだあ…、私もいつかは助手席に乗って、海に出かけたいなあ…、うひひひひ」
「へっ!」僕は鼻で笑った。「どうせ、親に買ってもらったんだろ? ああ、嫌だね嫌だね。自分の金で買ったわけでもない車に乗っていきり散らかす害虫なんて」
「あんたの好きなアバズレだって、全身ブランドで決めちゃってるじゃない。その金は何処から出ているのかしらね」
「そりゃあ、あれだろ。自分のバイト代だろ。佐藤恵奈は、親の脛を齧るような軟弱者じゃないんだ。ちゃんと、自分の金は自分で稼いで、そして、自分の好きなことに使う。当たり前のことかも知れないけど、意外に皆ができていないことさ」
それをできる佐藤恵奈は、やはり「女神」ということだ。
そう思った後で、少し押し黙る。
ゴキブリが高いスポーツカーに乗っていたことは事実だ。そのスポーツカーに乗って幸せそうにしていたのは佐藤恵奈だった。つまり、この先、僕が佐藤恵奈と付き合い始めたとき、僕には「スポーツカーに乗れる」というスキルが必須になる。
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