その⑥

「おいおい、嘘だろ…」

「嘘じゃないもん! 私の眼力舐めないでくれる? 半径三十キロ以内なら、圭太君が瞬きを何回したかわかるくらいよ?」

 じゃあ、なんでさっき、部屋の中にゴキブリがいるかどうか見抜けなかったんだ?

 心の中でつっこみを入れている僕を放って、五十嵐伊織は「ああん、もう!」と地団太を踏んだ。

「一歩遅かったわ! あの二人、ホテルで散々イチャイチャしておいて、早起きして七時にはチェックアウトする健康志向の持ち主だったのよ!」

 それが本当なら、僕たちの姿が、スポーツカーからあのゴキブリと佐藤恵奈に見られたかもしれない。もしかしたら、変な疑いを掛けられただろうか? あのスポーツカーの車内の会話が気になった。

 僕の心配とは裏腹に、五十嵐伊織は頬を赤く染めてその場で小躍りしていた。

「ああ、かっこいい…、車の運転をできるなんて…、さすが圭太君ね…。まあ、将来助手席に座るのは私だけどー」

「ゴキブリに、ハンドル握る手があるのか?」

「少なくとも、あんたよりは長いだろうね、腕も足も、身長も」

「くっ…」ストーカー女に言われると、無性に腹が立つ。「車ね…、僕だって本気を出せば…、スポーツカーだって乗りこなせるようになるさ。それで…、佐藤恵奈を連れて…、海に出かけてやるさ」

 君の青い車で海へ行こう~♪ 置いてきた何かを見にいこう~♪ ってね。

 とにかく、大通りに出ていってしまったあの赤いスポーツカーに乗っていたのが、ゴキブリと佐藤恵奈だというなら、ホテルに乗り込む理由も無くなった。そして、車で走られたら、僕たちの足では追いつけない。

「ダメだな」僕は肩を竦めた。「これ以上は追跡できない。とりあえず退こう」

 それに、見られた可能性がある以上、今日はもう踏み込まない方がいい。ただでさえ、五十嵐伊織は、チャンスと見ると突っ走ってしまう性格だ。

 少しでも多く佐藤恵奈の生きている姿を瞼の裏に刻み込みたかったが、ここは我慢。それに、息をしているだけで、「この地球上の空気」を彼女と共有できているんだ。こんなに幸せなことは無い。

「帰ろう」

 全力で走ったせいで、身体中汗まみれだった。筋肉も、急に動かされたために、びっくりして細かく痙攣している。僕はつっぱるふくらはぎを手で三回叩いた。

 地面が感覚を失ったように柔らかい。

 沼の中に足を踏み入れるような気分で、僕は帰路につこうとした。

 それを、五十嵐伊織が引き留める。

「じゃあ、うちに来てよ」

「ああ? なんで? 僕は佐藤恵奈以外の女の家に上がる気は無いんだよ」

「だけど、アバズレの写真、欲しいんでしょ?」

「え…」

「私の部屋のパソコンに保存してあるから、来なさいよ。印刷してあげる」

「はいはい、行きます行きます!」

 僕は餌を前にした犬のように、五十嵐伊織に飛びついたのだった。

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