その⑤

 それを見て、五十嵐伊織はにやにやと笑った。

「うひひひ、これだから童貞は…」

「おめえは処女だろうが!」

 そうやってお互いを貶し合った瞬間、僕と五十嵐伊織は、背後で爆弾が炸裂したかのように、アスファルトが割れんばかりに地面を蹴って走り出していた。

 びゅんっ! と、山おろしのような勢いで、二人が路地を疾走する。塀の上で転寝していた猫はおどいて「ふぎゃあ」と跳び上がる。電線にとまって突き合っていた雀たちは、羽根を散らして飛び立った。

「あああああ! あのゴキブリ!」

「あああああ! あのアバズレ!」

 僕を差しおいて、佐藤恵奈と、ラブホテルだと!

 させん! そんなことさせん! そんな、エッチな音楽流しながら、バスローブを着て抱き合って、「今日は幸せだね!」「うんそうだね!」「愛してるよ」「私もよ」だなんて言わせん!

 この近くにラブホテルと言えば、この路地を抜けて大通りに出て、少し進んだ先の駅に裏にある「ホテル・ラブリーキッス」しかない! さしずめ、二人はあそこに泊っている!

「必ず阻止して見せる!」

「いや、もう遅いでしょ!」

「ああ?」

 五十嵐伊織のらしくないつっこみが聞き捨てならなくて、僕はサンダルを履いた足でブレーキを掛けて立ち止まった。五十嵐伊織もぴたっと立ち止まる。

「じゃあなんだ! このまま、爪を噛みながらあいつらの帰宅を待てってか?」

「いやいや、乗り込むよ! あの二人の愛の巣に! そんでもって! 圭太君のバスローブを撮っちゃう!」

「よし、決まりだ!」

 たった会話二ターンでお互いの目的を一致させると、僕たちはまた走り出した。

 ニワトリに吠えられ、犬に追いかけられ、散歩しているおじいさんを追い抜き、汗まみれになりながら細い路地を抜けた。

 朝七時の大通りに、車の姿はほとんど見られない。信号は意味もなく点滅を繰り返し、歩道を歩く坊主頭の男の子は、朝練を前にして欠伸を噛み殺していた。

 その、喉かな一日の始まりを切り裂くようにして、僕たちは彼らが泊っているであろう愛の巣に向かって駆ける。駅を通り過ぎて、陸橋を渡って裏路地に入る。 

 後は直線だった。

「おおお!」

 ラブホテルの卑猥な看板が見えてきた。

 前方から赤いスポーツカーが走ってきて、僕と五十嵐伊織の横をすれすれで通り過ぎる。

 ぶわっと吹き付ける風に目をやられながらも、僕のサンダルを履いた足は、しっかりと堅いアスファルトを踏みしめていた。

「佐藤恵奈ああああああ!」

「ちょっと待って!」

 その瞬間、五十嵐伊織が僕のTシャツの裾を掴んだ。

「ふぎゃあっ!」

 急に引っ張られてバランスを崩した僕は、猫が踏みつけられた時のような悲鳴を上げて、堅い地面に思い切り頭を打ち付けて転んでいた。

 いててて…。

 擦り切れた顔を抑えながら上げて、僕を止めてきた五十嵐伊織を睨む。

「何をする…、佐藤恵奈とキスをするまでは顔に怪我をしないって…」

「今の車、見た?」

「車だと?」三秒間考えて、頷く。「ああ、さっきの赤いスポーツカー?」

「そうそう」

「それがどうしたんだよ?」

「だから…、さっきの車に、圭太君のあのアバズレが乗ってたの!」

 へ?

 顔に残った焼けるような痛みが、一瞬で消え失せる。

 さっきのスポーツカーに、ゴキブリと佐藤恵奈が乗っていた?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る