その④
「とにかく、原本を持って来いよ。また明日でいいからさ」
「ちっ、この際にヨシアキも圭太君サイドに引き込もうとしたのに…」
「人類の誰がゴキブリを好きになると思うんだ?」
「ゴキブリじゃないから。ゴキブリだとしても、私が好きになるから」
五十嵐伊織は、僕から写真をひったくると、写真の中の半裸のゴキブリの頬をすりすりとこすりつけた。
「はあ…、帰ったらすぐにアルバムにしまって上げるからね」
「そんなくだらないことしている暇があったら、観察しようや」
僕は首を擡げて、佐藤恵奈のアパートのベランダを見上げた。
佐藤恵奈のアパートに、ゴキブリのことが好きな五十嵐伊織が来ているということは、つまり、あのゴキブリが泊りに来ているということだ。
もしかしたら、もしかすると…、前のような絶景が見れるかもしれない、と期待していた。
しかし、ベランダには何も干されていなかった。
「なんだ…」
あからさまにがっかりして、指をパチンと鳴らす。
「今日は何も干されていないぞ…?」
「あ、そうだね」
五十嵐伊織も、今その違和感に気が付いた。
写真をポシェットに入れてから、「ええええええええ…」と残念そうな声を洩らす。
「せっかく、圭太君のパンツの色を確かめようと思ったのに…」
「それに…、明かりがついていないんじゃないか?」
「明かり?」
「ほら、部屋…、真っ暗」
違和感の二つ目はこれだった。前回は、この時間なら佐藤恵奈の部屋の窓には、蛍光灯の白い光が灯り、中で人が動く気配がしていた。
それなのに、今は、窓が真っ暗で、人が動く気配がしない。
「もしかして、部屋にいないんじゃないか?」
「そんなこと無いよ」僕の疑問を、五十嵐伊織はあっさりと否定した。「だって、昨日、二人の会話を盗聴したら、『今夜は楽しみだね』『そうね』って、言ってたんだもん」
「ああ、そう」
今夜は楽しみ。つまり、昨夜もいちゃいちゃし合ったのか…。
ひっそりと肩を落とす僕の横で、五十嵐伊織は声高々に続けた。
「圭太君って、自分の部屋にあのアバズレを上げたこと無いのよ。セックスするときは、必ずこの部屋に来るの。きっと、自分の部屋は散らかっているんでしょうね! ああ、想像しただけで可愛い…」
「男が、自分の部屋に彼女を上げない?」
それで、性交渉をするときは、いつも佐藤恵奈のアパートで?
藪を駆け抜けた後に、ズボンの裾にくっつく泥棒草を指で摘まんで取っているような、変な感覚が身体を取り囲む。
「それで、『今夜は楽しみだね』『そうね』の会話だけで、ゴキブリがここに泊るって踏んで来たのか?」
「うん」
なんて軽率な。うーん、あのカーテンの向こうに、本当に佐藤恵奈とゴキブリがいるのかが気になる…。僕は少し悩んで、地面の上に落ちていた小石を拾い上げた。
それを、オーバースローでベランダに向かって投げる。
弧を描きながら飛んでいった小石は、佐藤恵奈の部屋の窓に、コツンと当たって跳ね返った。
「それ、逃げろ!」
「あいあいさ!」
小学一年生の時に、友達を誘う時によくやった方法だった。
あの頃のわくわく感を思い出しながら、僕と五十嵐伊織はだっと走り出した。
アパートがギリギリ見えるくらいの距離まで移動すると、振り返ったベランダを見る。
しかし、佐藤恵奈どころか、ゴキブリさえも出てこなかった。
「出て…」
「来てないねえ」
これで確信する。
佐藤恵奈とゴキブリは、あの部屋にはいない。
「どこかに泊っているんだろうな」
「泊るって、何処に?」
「そりゃ、ゴキブリの部屋だろ」
「いやいや、だから、圭太君は、今まであのアバズレを自分の部屋に入れたことがないんだって!」
「じゃあ、後は…」
「後は?」
五十嵐伊織が、きらっとした目で僕を見る。
僕は消去法で残った、彼らの居場所を言おうとした。
「だから、その…、ら、ら、ら、ら」
「ああ、ラブホテルね」
「そう…」
「え? なに? 照れてたの?」
「まさか?」
肩を竦めて、平気そうなふりをしたが、顔がどうしようもなく熱くなっていた。
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