その②

 女郎蜘蛛を指に乗せたまま、窓を開けてベランダに出ると、アルミの手すりの上に彼(もしかして彼女?)を乗せた。

 昨日からしつこく僕を追跡してきた女郎蜘蛛は、えらく往生際がよく、そのままアルミの手すりの裏に隠れてしまった。

「ふふふ…、なかなか可愛いやつじゃないか。僕に佐藤恵奈という女性がいなければ、虫籠の中で飼ってやれたものを…」

 女郎蜘蛛を外に出すことに成功した僕は、部屋に戻った。

 机の上に腰を掛けた僕は、ナップサックからノートとペンケースを取り出すと、今日の成果を書き記していった。

 佐藤恵奈がゴキブリと一緒に行った店。そこで買ったもの。その値段。それをそんなふうに使うのか。どんな顔をして買ったのか、詳細に書く。僕と佐藤恵奈が結ばれたときに、ここで書き記したことが必ず役に立つことだろう。「ええ? ヨシアキ君! どうして私の好みを知っているの?」

 ふふふ、そうだね…、好きな女の心くらい、簡単に読めるんだよ。真の男はね。

 きゃああ! かっこいい! よっ! 男の中の男!

「ふふふふ…」

 彼女との幸せな日々を想像した僕は、ペンを握る手を止めて、不敵な笑みを浮かべていた。

 とにかく、今日も佐藤恵奈は美しかった。未来永劫美しい。きっと、彼女は神さまの加護を受けていて、老いない身体になっているに違いない。まあ、三十歳になった佐藤恵奈。四十歳になった佐藤恵奈。あの黒髪が、山脈を掛ける白銀の狼のようになったとしても、僕は彼女を愛するがね。彼女がこれから、どんなふうに歳をとっていくのか、それを見届ける権利は僕にだけあるのだ。

 二時間かけて、彼女のことをノートに書き記す。

 それから、昨日撮った写真をパソコンに取り込んで、一枚一枚、プリンターで丁寧に印刷した。それを、「佐藤恵奈写真集」にファイリングする。それで三時間。

 一仕事終えた僕は、椅子から立ち上がり、疲弊した身体を捻った。背骨が、バキバキと心地よい音を立てる。

「…さてと」

 佐藤恵奈のことを一時たりとも忘れたくは無いが、僕は別のことを考えることにした。

 別のこと。つまり、五十嵐伊織のことだった。

 何度考えても、今朝の彼女のあの行動は危険極まりない。普通、本人の前でシャッターを切るか? 切ったとしても、無音にするのが普通だろう。まあ、最近のスマホとかカメラは、盗撮防止のためにあえて音が切れないようにしているものもあるらしいが…。

「あいつといたら、命がいくつあっても足りないな…」

 いかんいかん、佐藤恵奈以外のことを考えたら眠くなる。

 僕はふわっと欠伸をした。

 今日も一日中歩き回って疲れた。だからと言って、これをやめる気も休む気も無い。佐藤恵奈の後を追いかけているときこそが、僕の命が輝く時なのだ。

 ああ、「佐藤恵奈を観察する」っていうバイト、どこかに無いかな? そうしたら、僕は一日中彼女のことを追いかけることができるのに。時給九〇〇円で、二十四時間三十日。金もがっぽがっぽ入ってくるんだろうな。

 とろんと、上の瞼が重くなる。今日は早めに寝よう。

 ベッドに寝転ぶ前に、ベランダに干してあったタオルを取り込むために、窓を開けて外にでた。物干し竿に掛かったタオルを引っ張って取っていた時、サンダルを履いた足が妙にむず痒いことに気が付いた。

 見ると、ベランダの隅に、先ほどの女郎蜘蛛が小さな巣を作っていた。

「あ、お前…、ここに居つくつもりなのか?」

 すぐに巣を壊してやろうかと思ったが、思いとどまる。

 女郎蜘蛛は、ベランダを飛び回る蚊を捕まえて、その腹に牙を突き立て、中の体液をちゅうちゅうと吸っていた。その様子が、妙に生き物っぽい。僕の嫌いな蚊を食べてくれるなんて、なかなか利口な女郎蜘蛛じゃないか。

「ほうほう、ベランダから侵入する外敵から僕を守る代わりに、ベランダに居つかせてもらおうとする算段か…」

 僕は食事中の女郎蜘蛛に手を伸ばし、その堅い外骨格を撫でた。

 せっかく愛でてやったというのに、食事を邪魔された女郎蜘蛛は前肢を振り上げて、僕を威嚇してきた。恩の無い奴め。今すぐにでも殺虫剤を吹っ掛けてやろうか?

 やめておこう。何事も生類憐みの令だ。

「いいだろう。このベランダになら住んでもいい。だけど、あと少ししたら、佐藤恵奈と同棲を始めることになる予定なんだ。佐藤恵奈が僕の部屋に入ってきたとき、その時になれば、必ず出ていくんだぞ?」

 蜘蛛はうんともすんとも言わない。そりゃそうか。

 僕は勝手に約束を取り付けると、もう一度、女郎蜘蛛に念を押していった。

「君がここに住んでもいいのは、佐藤恵奈と僕が付き合って、同棲を始める前までだ。それが過ぎたら、さっさと出ていくんだぞ? いいね? いいんだな」

 耳元を、蚊が「ぷうううん」と横切った。

 僕はかるたで遊ぶ時のように、さっと手を動かして、飛んでいた蚊を掴んだ。

 軽く握りつぶして殺して、綺麗な巣に向かって投げる。蚊の遺骸は網に引っかかった。

 じっとしていた女郎蜘蛛は、さっと蚊が引っかかっているところに走っていき、また、腹の体液を吸い始めた。

「お、おー、食べてる食べてる」

 面白いな。蜘蛛か…、つまりスパイダー。

「可愛い君が好きなもの~♪ ちょっと老いぼれてるピアノ~♪ 寂しい僕は地下室の~♪ 隅っこで蹲るスパイダ~♪」

 サンダルを脱いで部屋に戻りながら、スピッツの『スパイダー』を口ずさむ。

「だからもっと遠くまで君を~♪ 奪って逃げる~♪ ららら千の夜を飛び越えて~♪ 走り続ける~♪」

 ベッドに腰を掛けて、へたくそな音感で歌う。

 スピッツのスパイダー。「誘拐犯の曲」だの、変な噂が囁かれているが、素晴らしい曲なことに変わりはない。今の僕にぴったりの曲だった。

 まあ? その内、僕と佐藤恵奈は付き合うことになるんだから、「奪って逃げる~♪」必要は無いんだけどね。その内、「青い車」みたいな関係になるだろうよ。

「君の青い車で海へ行こう~♪ 置いてきた何かを観にいこう~♪ 今変わってゆくよ~♪」

 気持ちよく歌っていると、隣の壁が「ドンッ!」と蹴られる音がした。

 おのれ隣人。こういう時くらい、気持ちよく歌わせてくれないかな?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る