第三章 「作戦会議」
その日の夕方、佐藤恵奈の観察を終えた僕は、汗だくの身体でアパートに戻った。
やはり、夏の観察は身体に堪えるな。彼女とその隣のゴキブリにばれないように追いかけるのに精神をすり減らし、冷や汗ばかりをかいた。
くんくん…。うへえ、全身汗臭い。
これでも、佐藤恵奈が愛用しているボディーソープと、シャンプー、リンス、あと制汗剤を使っているんだけどなあ。なかなか、彼女の楽園の花畑のような匂いにならない。どう嗅いでも、男の獣っぽい臭いだ。「鼻が曲がるほど臭い」というわけじゃないけど…、ちょっと気になる。
シャワーを浴びながら、今日の佐藤恵奈の観察を振り返る。
「ああ、美しい…、あと可愛かったなあ…」
佐藤恵奈はあれから、支度をして、十時にアパートを出た。
目障りなゴキブリと一緒に向かった先は、すぐ近くにあるブティックだった。二人はそこで買い物を楽しんでいた。
ゴキブリの服には一ミリの興味も持たなかった。佐藤恵奈は何を着ても、よく似合っていた。
新作のワンピースに、カットソーや、ミニスカート。露出の高いノースリーブも良かった。あくまで、服は脇役。主役は佐藤恵奈。どんな服を着ても、彼女は天の川銀河のように煌めいていた。その神々しさはまさに赤色巨星!
「ふふふふ…」
彼女の姿を思い出しただけで、自然と笑みが洩れていた。
ぼやっと曇った鏡に、僕の情けなく緩んだ顔が写る。おっと、そんな顔をしていたら、いざ佐藤恵奈と付き合った時に愛想をつかされるぞ? まあ、佐藤恵奈は女神そのものだから、そんなことはしないと思うけど。思うけど!
汗を流してさっぱりとした僕は、風呂を出た。入り口に畳んで置いてあったバスタオルを掴み、身体を拭いながらフローリングの部屋に入る。
裸の状態でクローゼットをまさぐり、パンツとジャージを取り出し、さっと着た。
喉が乾いていたので、部屋の隅に置いた、箱買いしているミネラルウォーターのボトルを一本手に取った。これは、佐藤恵奈が愛飲しているものだった。
パキッとキャップを開けて、常温の温い水を流し込む。
ふう…、生き返るな…。
僕の身体に、佐藤恵奈の身体の浸透圧を整えているミネラルと水分が浸み込んでくる。僕と彼女は、さらにシンクロする…!
「くうっ! 素晴らしい!」
水を一気に飲み干した僕が、部屋の隅のゴミ箱にボトルを投げ入れようとした時だった。
僕の目の前に、黒い影が降ってきた。
「うひゃあっ!」
僕は情けない声を上げると、空になったボトルと、濡れたバスタオルを放り出して、堅い床に腰を打ち付けた。
腰に広がる、じんじんとした痛みに耐えながら顔を上げると、すぐ目の前に、今朝の女郎蜘蛛がぶら下がっていた。
天上から糸を這わせているようだ。
「ああ! お前、こんなところにいたのか!」僕は手を伸ばして、天上からぶら下がった女郎蜘蛛を指の上に乗せた。「もしかして、僕の部屋に巣を造ろうとしたのか? ダメだダメだ! そんなことはさせないよ! 僕は平気だが、佐藤恵奈が許さないんだよ」
理解しているのか、していないのか、女郎蜘蛛は緑と黄色の縞模様の肢をカチカチと動かし、八つの目玉で僕を見た。
「すまないねえ…、それに、うちの部屋には餌となる虫はいないんだよ。ゴキブリがいるかもしれないが…、いたとしたら、お前よりも先に僕が処分する。すまないね、私怨だよ」
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