その⑤
「ねえ、今、シャッターの音が聞こえなかった?」
「うん? 何のこと?」
「絶対聞こえたって! 私、最近圭太君がストーカー女に付きまとわれているから、『シャッター音』に敏感になっているんだから」
「ああ、あの女の子のことね」
女の子…。五十嵐伊織のことか。
ゴキブリは、ベランダから路地を見回して「うーん」と唸った。
「別に…、怪しい人影はいないと思うけど…」
「いやいや、絶対にいるって!」
佐藤恵奈の方が正しかった。さすが僕の女神。ゴキブリとは違うや。
「そんなに嫌なら、とにかく部屋に引っ込もうぜ。ほら、残りの洗濯もの取り込んでさ」
「うう、気持ち悪い…。あのキチガイ、絶対にどこかから圭太君の裸を盗撮しているんだわ」
「そんなにあの子のこと悪く言うなよ? お前がきつく言ってくれたんだから、もうつけてこないって」
ガララ…、と、窓が閉まる音がして、ベランダから聞こえる声が途切れた。
僕は恐る恐る顔を出して見ると、二人の姿は無くなっていて、窓もカーテンもしっかりと閉まっていた。
「ふう…、ばれずに済んだか…」
安堵の息を吐く。その瞬間、隣に隠れていた五十嵐伊織が、飼い主に飛びつく犬のように僕の胸ぐらを掴んで、ざらついたアスファルトの上に押してきた。
ごつっと後頭部を強く打つ。
「いてえ…、何をする」
「ね、ねねねねねねえねえ、聞いた?」
五十嵐伊織は顔を真っ赤にして僕に聞いた。
「聞いたって、何を?」
「うひひひひ、さっきの圭太君の言葉よ!」
「聞いたけど? 『とにかく部屋に引っ込もう』って」
「その後よ! 『あの子のことを悪く言うなよ』って、うひひひ、私を擁護してくれた…、つまり、私に追いかけられることに悪い気はしてないってことよね!」
「ああ、そう…」
「ああ、幸せ…、やっぱり、圭太君は私の王子様なんだわ…」
五十嵐伊織は我が身を抱くようにすると、上体をくねくねと捩った。
僕は腹筋に力を入れて、上体を起こした。頭についた砂粒がパラパラと落ちる。
「そりゃよかった」
「うひひひひ…、こりゃあ、結婚式も時間の問題ねぇ…、洋式にしようかしら…、胸が無いから着物でもいいんだけどなあ…」
「お前がゴキブリに好かれているかどうかは、どうでもいい話だ」
僕は五十嵐伊織の言葉を軽くあしらうと、先ほどの行き過ぎた彼女の行動に釘を刺した。
「とにかく、さっきみたいに、危ない行動はやめろよ? 昨日みたいに、カメラぶっ壊されるのも…、警察に追いかけられるのも嫌だろう?」
「あーはいはい」
幸せの搾りかすを浮かべた風呂にどっぷりと浸かっているような五十嵐伊織は、聞く耳を持たなかった。
「まあ、大丈夫でしょ。最近、ばれないように観察するのにも慣れてきたしい」
「あのなあ…」
本来なら、「お前が捕まろうがカメラを壊されようがどうでもいい」と言いたいが、佐藤恵奈がゴキブリと一緒にいる以上、僕と五十嵐伊織が出くわすのは不可避だった。
こいつのとばっちりを喰らって、僕が佐藤恵奈の観察をしていることがばれるのは御免だ。
「いいか? さっきみたいな大胆なことはやめろよ? いいか?」
念を押して言う。彼女の耳には届かない。
「それより見てよ、撮れたわ! 圭太君の写真! 極レアのパンツ一丁! 一眼レフで撮りたかったけど」
「うーん、男の半裸には興味無いなあ」
「うひひひひ…、これは家宝ね! 早速帰ったら印刷しなきゃ! あと一か月は持つわねえ!」
「持つって…」
ああ、そうか、アレのことか…。
佐藤恵奈の家に泊っているゴキブリを観察に来たものの、まさか「パンツ姿」を写真に収められるとは思っていなかった五十嵐伊織は、誕生日プレゼントをもらった時の子供のように、デジカメを大事そうに抱えていた。
「また壊されちゃいけないし、今日はかーえろ!」
カメラをポシェットに仕舞い、てくてくと歩き始める。
「え、帰るの?」
「ふえ? そうだけど?」
「いやいや、観察はこれからだろ」
写真を撮れただけで帰るだと? それは、同じ「観察者」としていただけなかった。
観察者たるもの、愛し、慕うその人の生活を目に焼き付け、一日中寄り添うべきだった。
「ちょっと甘いんじゃないか? ゴキブリを好きになる趣味は理解できないが、好きになった以上、その人についていくべきだろう」
「ふむ」首だけで振り返った五十嵐伊織は、頭の上に「?」を浮かべた。「あんた、わからない人ねえ」
「わからないだぁ?」
「人に『目立った行動をするな』って言う割には、一日中その人の後をつけるんだ」
「いや、当たり前だろ! 僕と佐藤恵奈は一心同体だぞ? 彼女が何も無いところで躓いたら、一緒にその痛みを感じたい。彼女が、お釣りの計算に戸惑っておろおろしていたら、一緒におろおろしたい! ご飯を食べているときは、すぐそばで僕も食べて、一緒に空っぽの胃が満ちていく瞬間を感じたいんだよ」
「ああ、わかる!」五十嵐伊織は身体を僕に向けると、ヘッドロックのように激しく頷いた。「私だって、圭太君と一緒にいたい! 佐藤恵奈の隣にいるべきは私だもん! 昨日だって、圭太君の陰核に貫かれたかった!」
「お前、常に気持ち悪いよな」
言っていることとやっていることが矛盾しているな。
そんなに一緒にいたいなら、一日中観察していればいいんだ。僕みたいに。
僕の疑問に、五十嵐伊織はすぐに答えた。
「だけど、私、追跡が下手だからねえ。昨日みたいに、一日中へばりついてたらすぐにばれちゃうのよ。だから、ほどほどにしないとねえ」
「うーん、確かに」
「あんたは? ヨシアキはどうなの?」
「どうって?」
「今までに見つかったことあるの?」
「いや、無いな」
はっきりと首を横に振った。
「僕は追跡が上手いんだよ。この半年、ずっと彼女のことを観察しているけど…、一回もばれたことは無いね。まあ、時々、視線に気づいて振り返ることはあるけど、何とかやり過ごしてる」
あの、僕の気配に気が付いて振り返った時の彼女、すっごく可愛いんだよなあ。
ぐふふ、と鼻の下を伸ばしていると、五十嵐伊織は「きもちわる」と言った。それから、素直に僕を褒める。
「ふむふむ、凄いね。今までに見つかったことが無いのか…。私には無理な芸当ね」
「意外に簡単だぞ?」
「無理無理。私にはそういうの無理」
やってもいないうちに、五十嵐伊織は手をぱたぱたと振った。
「私は、ばれない程度にやるよ。その分、部屋に帰って、圭太君のグッズを造ったり、写真を眺めたり、オナニーしたりするから、今でも十分幸せだし」
そう言い残すと、五十嵐伊織は踵を返して歩き出した。
くどいと思いながら、僕は五十嵐伊織を引き留めた。
「あ、そうだ」
「なに?」
「さっき撮った写真…、僕の分も印刷してくれよ。金は払うから」
「ああ、極レア写真ね」
断られるかと思ったが、五十嵐伊織はあっさりと首を縦に振った。
「うん、いいよ。まあ、お金はちょっと生々しいし、今度、ジュースでも奢ってよ」
「ああ、わかった!」
よし! 佐藤恵奈の下着写真ゲットだぜ!
僕と写真を印刷する約束を交わした五十嵐伊織は、今度こそ「ばいばーい」と手を振って、路地の向こうへと消えていってしまった。
静まり返った路地で、一人でガッツポーズ。「わはははっはは!」と笑い出したかったが、佐藤恵奈のアパートの前なので自重する。
僕はナップサックをひっつかむと、風になるような勢いで走り出した。
わはははははははは! 今日も天は僕に味方している!
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