その④

 女はポシェットからデジカメを取り出すと、カシャカシャと取り始めた。

「うひひひい…、圭太君のパンツの色は黒か…、そしてメーカーは『アンダ〇ア〇マ〇』ね…、うひひひ…、今日の帰りに買っちゃお…。ああ、想像しただけで濡れるわ」

「お前…、気持ち悪いな…」

「あ? 佐藤恵奈みたいなアバズレに恋してるあんたに言われたくない」

 って、こいつ、昨日一眼レフをぶっ壊されてるのに…、予備のデジカメを持ってたのかよ。

「な、なあ…、そのデジカメ、まだ容量はあるか?」

「もちのろんよ。なに? 何か撮りたいものでもあるの?」

 お察しの通り。

「佐藤恵奈以外ならいいよ。あんたのデジカメ壊したの私だし、貸してあげる」

「佐藤恵奈の下着を撮ってくれ」

「ほら、帰った帰った」

 女は手をパタパタと振って僕のお願いを払いのけた。

「あの女の写真がデジカメの中に入っているだけで、胸糞が悪いわ。まあ? 写真撮って、神社の杉の木にわら人形と一緒に打ち付けるのも悪くないけど? うひひひひ」

「ああ、そう。じゃあいいや」

 すぐにでも「なんだと! 佐藤恵奈を馬鹿にするのか!」と殴りかかってやりたいところだったが、昨日のように騒ぎを起こすわけにはいかなかった。

 彼女の写真は早々に諦めて、僕は仕方がなく、メモに「佐藤恵奈の下着の色は赤色」と記入した。

 たった干されている男の下着とTシャツを撮るだけなのに、女は何度もシャッターを切った。無音モードを知らないのか、路地に、「カシャカシャ」と、デジカメの小さなボディから電子音が放たれる。

「うひひひひ…、ちゃんと、『圭太君写真集』に加えて上げますからねえ」

 こいつ、まじで気持ち悪いな。

 黙っていたら可愛らしい顔をしているだろうに、彼女の口は三日月のようににまっと笑い、薄い唇の間から、すきっぱが顔を覗かせている。野外を一日中うろついているせいか、腕には蚊にかまれた痕が無数にあった。

 薄い胸。低い身長。年齢は聞いたことが無いが、平日、これだけ自由に動き回れるってことは高校生以上か。そうは見えないくらい、幼い顔つき、体つきをしている。これじゃあ、ゴキブリどころか、蜘蛛も寄って来ないだろうな。

 僕は気になって、シャッターを切る女に聞いていた。

「お前…、名前は?」

「は? 私の名前?」女が写真を撮るのをやめて振り返る。「私は、五十嵐伊織ね。黒河大学の二年生。文学部」

「あ?」

「じゃあ、あんたの名前は?」

「ぼ、僕は…、草壁義明。黒河大学の二年生…、文学部」

「はあ…」

 お互いに、気まずそうな顔になる。

「なるほど」

「うん、なるほど」

 僕たちは、同じ大学の、同じ学年だったというわけか…。

 その、何とも言えない微妙な奇跡に、喜ぶべきか畏怖すべきか悩んでいた時だった。

 ガララッ! と、ガラスの扉が勢いよく開け放たれて、下着姿の佐藤恵奈が出てくる。

 僕は、彼女の身体を見たいという欲求を、ハンマーで潰すように抑えると、五十嵐伊織の首根っこをひっつかんで、すぐ近くにあった「この先工事中」の看板の裏に飛び込んだ。

「ふ、ふひいい…」

 喉の奥からみっともない声が洩れる。

 まさか…、ばれた?

 看板の陰から、恐る恐るベランダの方を伺う。 

 僕の心配は杞憂だったようだ。佐藤恵奈は、ベランダに干されていた衣類を適当にひったくると脇に抱えた。なるほど、単に干していたものを取り込んでいたのか。

 僕は安心し切って、顔を半分出して下着姿の佐藤恵奈を眺める。

 うん、素晴らしい曲線美。世界の神秘が詰まっている黄金長方形。モナ・リザでも、ミロのヴィーナスでも、あの身体は表現できまい。勝負だミケランジェロ。

 鼻血が出そうになりながら見ていると、佐藤恵奈の背後に誰かが立った。

「む…」

 思わず声が洩れる。

 「洗濯もの、持つよ」と言いながら出てきたのは…、あのゴキブリだった。

しかも、パンツ一丁! 無駄に筋肉質な身体をしているのがむかつく! 畜生! あの大胸筋と一緒に爆発してしまえ!

 ああ、そうかあ…、裸かあ…、そうか、佐藤恵奈とゴキブリ、やっぱりやったのか…。

 逃れられない現実を突きつけられて、僕が意気消沈していると、隣の五十嵐伊織が慌ててデジカメの電源を入れているのがわかった。

 彼女が何をしようとしているのか気づき、僕はすぐに止めた。

「おい、やめろって…、いまカメラのシャッターを鳴らしてみろ、確実に見つかるぞ!」

「大丈夫大丈夫。この距離じゃ、見つからないから」

 女はそんな楽観的に言うと、すぐにデジカメをカメラモードに変える。

「貴重な貴重な、圭太君の裸よ? 隣にアバズレがいるのが気に入らないけど…、まあ、後でトリミングして消してあげるわ」

 リスクを優先した五十嵐伊織は、身体の半分を看板から出して、デジカメの矮小なレンズをベランダに立って洗濯ものを取り込んでいる二人に向けた。そして、「カシャリ」と撮る。

 その瞬間、佐藤恵奈が「なに?」と顔を青くして半歩下がった。

 僕はさっと頭を引っ込める。五十嵐伊織も、俊敏な動きで身体を看板の裏に戻した。

 看板の外。閑散とした路地に、佐藤恵奈が狼狽える声が響き渡る。

「ねえ、今、シャッターの音が聞こえなかった?」

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