第二章 「いんぷれっさはぼくのもの」
次の日。アパートのベッドの上で、ぐーすかといびきをかいていると、枕元に置いたスマホのアラームが鳴った。
『ねえ、起きて。ねえ、起きて。ねえ、起きて。ねえ、起きて』
「うーん…」
僕は寝ぼけ眼を擦りながら上体を起こした。
おかしいな。走っただけなのに、身体のあちこちの筋肉が痛い。背中に、ふくらはぎに、腹筋が特に。陸上は全身運動って、あながち間違いじゃないのかも知れないな。
ぼさぼさになった髪の毛を軽く整えている間も、枕元のスマホのアラームは鳴り続けている。
『ねえ、起きて。ねえ、起きて。ねえ、起きて』
ふふふ…、やはり、佐藤恵奈の声が綺麗だな。まるで鈴を鳴らしているようだ。そして、その彼女の声は、僕を新しい一日へと向かわせる。ベランダに止まった鳥たちは祝福の鳴き声を上げて、塀で蹲る猫は思わず「にゃあ」。
いやあ、ダメもとで、図書館で居眠りこいているゴキブリの傍にボイスレコーダーを忍ばせていたけど…まさか本当に彼女の声のサンプルがとれるとは…。これも、僕が佐藤恵奈と結ばれるという結末に一歩近づいている証拠なのかもしれないな。
これも、あと少しすれば、彼女本人が「ねえ起きて」と、ベッドに寄ってくることになるのか。くう! 楽しみで夜しか眠れないぞ!
とまあ、来る未来に胸を弾ませるのはまた今度にして、僕は顔をぴしゃっと叩いて立ち上がった。
「わははは! さあ、今日も新しい一日の始まりだ!」
その瞬間、すぐそばの壁が「ドンッ!」と音を立てて蹴られた。隣人の女性が「うるさいんだよ! さっさとアラーム止めろ!」と、アラームよりも大きな声で言った。
ふふふ…、そんなに佐藤恵奈の声がうるさかったのかな? 少々惜しいが、ここはアラームを消してやろう。
僕はスマホに手を伸ばし『ねえ、起きて』と言う佐藤恵奈、いや、アラームを消した。
静かになる。時間は、六時三十分。
本来なら、佐藤恵奈が起床する時間に合わせて僕も起きて、身体を起こした彼女を襲う睡魔の苦しみを一緒に体感したいところだが…、僕には「佐藤恵奈観察」という大義があるからな! そこだけは妥協できない。「眠いねえ」「そうだね! キラリン! もう少し寝ようか」なんてやり取りは、彼女をものにして、同棲生活を始めてからでも遅くない!
僕はとりあえず、洗面所に向かうと、彼女が使っている洗顔で顔を洗い、彼女が使っている歯磨き粉で歯を磨いた。それから、彼女が好んで食べている超熟のパンと、彼女が愛用しているトースターで焼いて、彼女が好きな国産のはちみつをたっぷりと塗りたくって、かじった。
ミニテーブルの上には、昨日、あのストーカー女が落とした催涙スプレーが置いてあった。お巡りさんに追いかけられた時に、ナップサックと一緒に反射的に拾って持ち帰ってしまったものだ。また会う機会があったら返そう。
腹を満たした僕は、再び歯を磨いて、ユニクロでかったジーパンとTシャツに着替えた。
ナップサックに、佐藤恵奈観察日記、メモ用のボールペン、財布にタオルと、必要なものを入れると、さっと背中に背負った。
その時、ナップサックから何か鮮やかなものが床に落ちた。
「うん?」目を凝らして見ると、それは女郎蜘蛛だった。「あ、お前、ついてきたのか!」
すぐに、昨日の女郎蜘蛛だと確信する。
「この野郎、ついてきたって、僕はお前の面倒なんて見ないからな!」
僕は床の上で八本の肢をキリキリと動かす蜘蛛の、細長く太った腹を摘まんだ。
「おらおら、出ていけ」
そのまま、部屋の外に連れ出そうとした瞬間、小指に、テーブルの足が引っかかった。
がつん! という音と共に、僕の全身を電気のような刺激が駆け抜ける。
「ふぎゃあ!」
僕は猫が踏みつけられたときのような叫び声を上げると、その場に頭から倒れこんだ。
倒れた拍子に、摘まんでいた女郎蜘蛛がどこかに放り出されてしまった。
顔を上げて探したが、物陰に隠れてしまったのか、もう何処にもいない。
「くそ、したたかな奴め」
まあいい。命拾いしたな。
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