その⑥
「うう…、気持ち悪…、パンツまで染みちゃってるよ…、こりゃあ、帰ったらシャワー浴びようかね」
息が整った僕も、ミネラルウォーターのキャップを捻り、一気に傾けた。喉を通り、冷たい水が胃に滑り込む。胃の底に落ちた瞬間、身体が活力を取り戻すようだった。
「ふう…」
インスタント麺に湯を注いだときのように、身体を快活に動かす。
今日の観察はここまでだな。これ以上うろついて、あのお巡りさんに捕まってもいけない。まあ、あの足の速さなら逃げられないことは無いけど…、まあ、こうやって汗だくになるのも御免だった。
僕はペットボトルにキャップをして、ナップサックに入れた。
「じゃあ、僕はこれで帰るから」
「あ、待ってよ」歩き出したところを、女が引き留める。「あんた…、あのアバズレのこと好きなんだよね?」
アバズレだあ?
「知らんなあ、そんな『アバズレ』なんて女」
僕が天を仰いで首を傾げると、女はめんどくさそうにため息をついた。
「はいはい、佐藤恵奈のこと、好きなのよね?」
「もちのろん!」
僕は待っていました! とばかりに頷いた。
両手を広げ、うっとりとしながら、女に佐藤恵奈の魅力を伝える。
「いやあ、よくぞ聞いてくれた! そう! 僕は佐藤恵奈を愛しているのだよ! 半年前に、初めて会ったあの日から、僕の心は彼女の『微笑み』という名の矢に射抜かれてしまったんだ! 彼女はまさに聖女だ! 容姿端麗、頭脳明晰。慈愛の女神! 彼女の微笑みで、砂漠一帯が花畑に包まれる! 彼女が息をする度に、地球の二酸化炭素が消えて、世界は地球温暖化に怯えることが無い幸せな日々がやってくる!」
「はあ…」
女は目をきょとんとさせた。わからないか? わからなくていい。この常に僕の胸を突き動かすこの感情は、佐藤恵奈以外にわかってたまるかってんだ!
「とにかく、あんたは佐藤恵奈のことが好きなのね?」
「ああ! 大好きだ! いや、『大好き』という言葉は少し幼稚だな! うん、言い換えるならば…、『愛している』!」
「まあ、それはどうでもよくて…」
女は僕の言葉を、そうめんのようにさらりと受け流して言った。
「じゃあ、あんた、佐藤恵奈を必ずものにしなさいよ?」
「ものに?」
「そう。佐藤恵奈を、必ず『恋人』として奪いなさい」
「恋人…?」
餓鬼っぽい顔をしている女に上から言われるのは気に入らないが、そこは、ニ十歳の大人の威厳を見せて堪える。
「僕に、『佐藤恵奈と付き合え』って言っているのか?」
「それ以外に何があるのよ」
「はははは、冗談はよしこちゃんだ」
「あんた何歳?」
「二十歳だ! 私は嘘は申しません!」
「ああ、昭和生まれってことはわかったわ」
まあ、そんなことはどうでもよくて…。と言って続ける。
「私の言っていること、理解してくれた? 馬鹿そうだけど」
「理解も何も、当たり前のことじゃないか! 僕と佐藤恵奈は結ばれる運命にあるんだからな! これは、根拠のない譫言じゃない! 神のお告げさ! 彼女の微笑みに心奪われたあの日、僕は全身を雷に打たれたような気分になったのさ! これは、『勘違い』なんかで済ませられるものじゃないな! そう! まさに、天上の神が、僕に告げたのだ! これより、僕と佐藤恵奈が結ばれるために、前途多難な運命がやってくるって!」
「ああ、そう…」
なんだ? えらく引きつった笑顔を浮かべるじゃないか。
「と、とにかく、あんたと佐藤恵奈が結ばれるなら、それでいいわ。そうしないと、私が圭太君と付き合えないんだからね」
「圭太?」
僕が首を傾げると、女は頬をまた真っ赤にして怒った。
「圭太君! 佐藤恵奈と付き合っている男の子! さっき散々言ったでしょうが!」
「ああ、あのゴキブリか…、すまんな、存在がゴキブリなもんで…、二、三歩歩くだけで忘れるんだよ」
「ああもう…」と、女はぐちょっと濡れた、栗色の髪の毛をかき上げて唸る。今にも僕に殴りかかりそうだったが、それを抑えて言った。
「とにかく…、佐藤恵奈と、圭太君が付き合っているでしょ?」
そうだっけ?
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