その⑤
お巡りさんとの追いかけっこの末、僕たちは我先にと、隣接するビルの隙間に飛び込んだ。
人一人がギリギリ入れる狭い空間は、エアコンの室外機から出る生温かい風で淀み、溝の隙間に溜まった雨水が腐り、異様な臭いを発していた。汗まみれでやってきた僕たちに気が付いて、壁で休んでいた大量の蚊が襲い掛かる。
蚊を払う余裕が無いほどに、僕たちは疲弊していた。
「ひい、ひい、ふう…」
「お、おう…、ストーカー女…、お産でも来たか?」
「な、なわけないでしょ…、圭太君の子供宿すまで死なないって決めてんだから…。って、逃げる必要無かったわね…、これがあるのに…」
そう言うと、ストーカー女は、ポシェットから銀色の缶を取り出した。
「さ、催涙スプレー…?」
「護身用に…、身に着けている、のよ…」
「それ、お巡りさんに吹きかけるなよ。公務執行妨害だから…」
くそ…、本日二度目の全力疾走は、きつい…。しかしおかしいな…、中学時代、バトミントン部で身体を鍛えていたはずなのに…。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ…」
心臓が左胸の奥で暴れている。肺に酸素が回って、喉の奥で鉄っぽい味がした。
僕よりも身体が小さいストーカー女の方は、もっときつそうだった。顔をゆでだこみたいに真っ赤にして、煙草のやにで汚れたビルの壁に手をついて肩で息をしている。丸い頬を伝い、顎から玉のような汗が滴り、地面にぽたぽたと落ちていた。
「ああ…、もう、無理…」
がくっと前のめりになり、壁に顔面をぶつける女。そのまま、ずずずっと顔を擦りながらその場に倒れこんだ。手から、握っていた催涙スプレーの缶が転がる。
「お、おいおい…」
僕も今すぐ横になりたかったが、衛生上ここでは倒れたくなかったので、何とか足に力を込めて踏みとどまった。死体のように倒れている女を見下ろす。
「し、しっかりしてくれよ…、情けないなあ…」
「あ、あんたには関係ないでしょうが…」
確かに関係無いが、一緒に警察から逃げた身。このまま放っておくのも違うような気がした。
僕はナップサックを掴むと、中に入っていた財布だけを取り出して、路地裏から出た。
周りにさっきのお巡りさんがいないことを確認して、すぐ近くにあった自動販売機で、ミネラルウォーターを二本買って戻る。
「喜べ…、このミネラルウォーターは…、佐藤恵奈が、普段から愛飲している、奥大山の天然水だ…、感謝して、飲めよ…」
今にも力尽きそうな声で、女に一本を渡す。
女は目をげっそりとさせながら、ボトルを奪い取ると、キャップを開けて喉を鳴らしながら飲んだ。
「ぷうううはああああああああ!」
なんて下品な飲み方をするんだ…。一杯のコーヒーでも、二時間かけて飲み干す佐藤恵奈とは大違いだな。
一瞬で、五〇〇ミリのミネラルウォーターの半分を飲み干した女は、残りの半分を頭から被った。
「おいおい、感謝して飲めって…」
「ああ、涼しい…」
女の頬を冷えた水が滑り落ちる。白いカットソーに染みて、彼女の中学生みたいなスポーツブラが透けて見えた。女は、空っぽになったボトルを僕に目掛けて投げた。
何とかキャッチする。
「ありがとねー。助かった」
「ミネラルウォーターで水浴びか…、何処の王様かな?」
「暑いんだから、仕方がないでしょ」
女は薄い唇を尖らせながら、服に染みた汗と水を絞った。
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