その④
「大体、佐藤恵奈のことをそんなふうに呼ぶなら、どうして君はあの場所にいたんだ!」
「私はあんたと違って、あのアバズレを撮っていたわけじゃないの! 圭太君を撮ってたの!」
「圭太?」
興奮して発熱していた脳みそが、ぷしゅうっと音を立てて冷えていく。
「圭太って、誰だ?」
「かあっ!」
女は頭を抑えて「だめだこりゃ」と言いたげなは反応を見せた。
顔を上げて、にやっとした、どこか馬鹿にするような目を僕に向ける。
「圭太君のこと知らないわけ? おっくれてる!」
「ああ?」
「ほら、この男の子よ!」
そう言うと、女は脇に抱えていたポシェットから、一枚の写真を取り出してオレに見せた。
「うん?」
はがきの裏に、先ほど、佐藤恵奈と一緒にいたゴキブリがカメラに向かって微笑む写真が印刷されていた。
それを見た瞬間、むかっ腹が立って、僕はその写真を力いっぱい破り捨てていた。
「ああああ!」
今度は、女が絶望する叫び声をあげて、地面に散らばった写真を拾い集める。
「ちょっと! 何やってんの!」
「むかつくね! そんなゴキブリの写真を見せて、僕が不快にならないと思ったのか!」
「何よ! 圭太君の何処がゴキブリなわけ?」
「存在がゴキブリだね! もう、遊ばせたこの髪の毛がゴキブリの触角に見えてならない!」
「違う! 圭太君の寝ぐせはチャーミングポイントなの! 可愛いじゃない! かっこいいじゃない! こう、歩いた時に、ぴょんって跳ねるところが!」
「なんだとう! 鬱陶しくて仕方ないね! そのまま寄ってきた猫に引っかかれろって話だ!」
なるほどなるほど。これで合点がいった。
あの時、僕の隣に隠れていたこの女は、佐藤恵奈を観察していたのではなくて…、佐藤恵奈に金魚の糞のようにくっつくゴキブリを見ていたってわけだ。
かーっ! 我ながら何たる失態! そりゃそうか! 佐藤恵奈の魅力が、こんな乳臭い女にわかってたまるかってんだ!
「そんなゴキブリを見るくらいなら、佐藤恵奈を見ろ!」
「なによ! そんなアバズレ見るくらいなら、圭太君を見ろっての!」
「はあ? アバズレじゃないって言っているだろう! 彼女は聖女なんだ! 話しかけられたら挨拶するし! 買い物をして釣銭もらうときも、ちゃんと感謝を伝えられている! こんな人格者が世界を探して何処にいる!」
「ああ? それをいうなら、圭太君だって、私の理想の王子様だもん! あの身長みた? あんたみたいな、ゴマ粒みたいな低い身体していないの!」
「なんだとう! お前の方が身長低いじゃないか!」
「女の低身長はステータスなの! いつかこの身体で、圭太君に上から見られるのが夢なの!」
「はっはあ! 随分と変なご趣味のお持ちのようだ」
「あんたこそ、アバズレの写真撮ってたけど、なにあれ! 気持ち悪い! アングルとか、シャッター切るタイミングが絶妙に気持ち悪い!」
「はあ? あの奇跡的なタイミングがわからないのか! 口からご飯をぽろっと落とす佐藤恵奈とか、風に吹かれて目を細める佐藤恵奈とか、彼女はいつも美しいけど、そうやって、一瞬を切り取ると、一層美しさに磨きがかかるんだよ!」
「へえへえ。それだったら、私の圭太君の方が凄いわね! ああいう、クールな見た目した男の子が、たまに笑ったり、欠伸したりするのが、最高に可愛くてかっこいいの! あんたみたいなアバズレ、屁でもないわ!」
「なんだと! このゴキブリ男!」
「なによ! アバズレ!」
「ゴキブリ!」
「アバズレ!」
「ゴキブリ!」
「アバズレ!」
平日昼間の公園で、男女が「ゴキブリ」だの「アバズレ」だの言い合って喧嘩している様は、周りにどう写っていただろうか?
叫ぶたびに、喉が擦り切れるように痛み、心臓も怒ってばくばくと震えた。
女の方を、顔を真っ赤にして僕に罵詈雑言を浴びせてくる。
喧嘩に夢中になっていた時だった。
僕と女は、不意に肩を叩かれて我に返った。
「ええと、ちょっといいかな?」
振り返ると、そこには、先ほどのお巡りさんが顔を汗だくにして立っていた。
中年顔のお巡りさんは、頬を伝う汗をハンカチで拭いながら、少し優しめの口調で言った。
「いやあ、やっと見つけたよ。一回は見失ったから諦めかけてたけど…、まさかこんなところで暴れてるとは…」
僕と女はぎぎぎっと首を動かして、見つめ合った。
お巡りさんがいう。
「とにかく、話を聞かせてくれないかな? 誰がアバズレで、誰がゴキブリか。あと、どうしてあの植え込みに隠れていたのか…」
次の瞬間、僕と女は、地面に置いていた荷物をひっつかむと、一斉に走り出したのだった。
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