その②

 なんだなんだ…、こんな近くに同士がいたのか…。

 僕はすくっと立ち上がり、頭にくっついた葉っぱを払いのけた。途端に、そよそよとした風が吹き付けて僕の汗まみれの身体を冷やす。

 可哀そうに、佐藤恵奈を収めた一眼レフを壊されたんだね。

 でも大丈夫! 僕のデジカメには、約三百枚の佐藤恵奈の写真が保存されているんだ! それを、あの佐藤恵奈に魅了された、ピュアな女に届けてやるとしよう!

「あの…」

「うん?」

 振り返ると、すぐ近くの駐在所のお巡りさんが、仁王立ちしていた。

 お巡りさんは、僕をまじまじと見つめた。

「通報があって来たんだけど…、君が、『植え込みに隠れていた女』でいいのかな?」

「あっはっは! お巡りさんよ、冗談がきつすぎますって!」

 その瞬間、僕は踵を返すと、さっきの女と同様に、植え込みをかき分けて走り出していた。

        ※

 ひい、ひい、ひい、ふう…。

 お巡りさんから全力で逃げた僕は、海に飛び込んだ後のように身体を汗だくにして、住宅街の中にひっそりと佇む公園に飛び込んでいた。

 ああ、だめだ…、ああ、しんどい。

 いやいや、「しんどい」だなんて弱気な言葉を使うなよ? お前は、いつの日か、佐藤恵奈と一緒に、夕暮れの海岸を走る予定なんだろ? 「あははは! まてえ!」「うふふ! 捕まえてごらんなさーい!」って言い合う予定じゃないか! 立て! 立つんだ!

「ぜえ、ぜえ、ぜえ…」

 とは言っても、精神論で何とかならないものはたくさんある。

 今朝飲んだミネラルウォーターが、汗腺を通って全て体外に排出されている。唾も、べたっとしているし、おしっこはもう出ないだろう。

 情けない声を上げながら、公園の水道に駆け寄り、水を出す。

 ジャージャーと、勢いよく流れ出す水を、頭から被った。

 ふう、気持ちいい。汗は体温を冷やすためだって言うけど、やっぱり、こうやって冷たい水を浴びる方がいいな。

 火照った顔を冷やした僕は、水道を止めた。

 まだ腹の奥がかっかと熱を持っていたが、かなりマシになった。

 日陰のベンチに腰を掛けると、抱えていたナップサックの中を確かめた。「佐藤恵奈観察日記」「佐藤恵奈のためにすることリスト」「佐藤恵奈撮影用デジカメ」「佐藤恵奈は好んで食べるミントタブレット」…。うん、走っている途中で失くしたものはないようだ。

「うん?」

 鞄を漁っていると、右の指先に、女郎蜘蛛がくっついていることに気が付いた。この蜘蛛、あの植え込みからついてきたのか…。

「悪いな」

 僕は女郎蜘蛛を、左指でパチンと弾いた。

 女郎蜘蛛は、黒い土の上に落ちて、黒と黄色、緑青色の身体が、もぞもぞとのたうち回る。

「蜘蛛は嫌いじゃないぜ。だけどな、佐藤恵奈が嫌いなんだよ。この前なんて、蝶々が顔に向かって飛んできた時、もうすっごく悲鳴を上げてだな。おっと! その時の声を録音したんだが、聞いてみるか?」

 と、シャツの胸ポケットからボイスレコーダーを取り出す。ええと、佐藤恵奈の悲鳴は…。

 再生しようとして、やめる。家と家の間に巣を作って、羽虫を喰らうような下等生物に、佐藤恵奈の魅力がわかってたまるかってんだ。

「じゃあな、達者で暮らせよ」

 僕は女郎蜘蛛に言うと、ベンチから立ち上がった。

 ふと、目を向けた公園のブランコに、先ほどの栗色の髪の毛の女が座っていることに気が付く。

「おおっ!」

 これは何たる偶然。やはり、同じ佐藤恵奈を慕う者同士、考えること、逃げる先は同じか!

 僕はベンチの上に置いたままのナップサックをひっつかむと、おもちゃ屋に走る子供のように、ブランコで揺れる女に駆け寄った。

「やあ、同士よ!」

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