その④

 パキリパキリと、プラスチックが折れる。おっと、いけないいけない。もしも、音が向こうに聞こえて、僕がツツジに隠れて佐藤恵奈を観察していることがばれたら…。まあ、佐藤恵奈は、慈愛の女神だから、そんなことはしないと思うけど。

「じゃあ、圭太君、これからどうする?」

「うーん、じゃあ、とりあえず、外出ようぜ。オレ、新しい服を買いたいんだよ」

「うん、わかった!」

「あのブランドの新作がさあ、なかなかいいデザインでさあ」

「うん! 見に行こ!」

 くそ…。

 僕は、頭ではわかっていながら、ボールペンを噛み砕いた。

 口の中に、ざらっとしたプラスチックの破片が残る。それ、ペッと、植え込みの土の上に吐いた。

 地面を這っていた小さな女郎蜘蛛がいそいそと逃げ出す。まあ待ちなって、お前も一緒に、佐藤恵奈を観察しようじゃないか。おいおい、行かないでくれよー。

 くそ、佐藤恵奈の魅力をわからん畜生め。

 僕はボールペンの代わりに、自分の爪を噛んだ。

 嚙みながら、佐藤恵奈とゴキブリの様子を眺める。

 うーん、わからん。佐藤恵奈は、どうしてあんなゴキブリに表情を緩めるんだ? 

 あいつといるときの佐藤恵奈の周りは、後光が差したようにキラキラと輝き、油断すれば眼球ごと焼かれそうだった。目を焼かれようと、彼女の美しい姿は見たい。ただし、ゴキブリがいなければ。

「今日はメロンソーダ?」

「うん、美味しいよ。圭太くんも飲んでみる?」

「うん、もらうよ」

 あ! 飲みやがった! あのゴキブリ! 佐藤恵奈の飲みかけのメロンソーダを飲みやがった! くうっ! どこまでゴキブリなやつなんだ! 僕だってまだ佐藤恵奈のメロンソーダどころか、彼女が捨てたハンバーガーの包装紙だって舐めたことが無いのに!

 くそ…あのゴキブリ野郎…、いつか目にもの見せてやるさ…。

 佐藤恵奈とゴキブリは、暫く席で談笑した後、「じゃあ、出るか」と言って、席を立った。

 あ、もう店を出るのか。

 僕も、急いで彼女たちの行く先を追おうと、ノート、破損したボールペン。彼女を隠し撮りしたデジタルカメラをナップサックにしまった。さっきの女郎蜘蛛がズボンの裾にくっついて、上ってきていたので、指でぴんっと弾く。

 ああ、暑い暑い。

 音を立てないようにしながら、ツツジの植え込みの中から出ていこうとする。

 その時だった。

「ちょっと!」

 佐藤恵奈の怒鳴る声が、テラスに響いた。

 僕は身体をびくっとさせて、中腰の状態で固まる。

 葉の隙間から、佐藤恵奈の様子を見ると、彼女は女神には似合わない獣のように目を吊り上げて、こちらへと歩いてきていた。

 思わず、「ひい…」と、小さく悲鳴を洩らす。

「あんた! さっきから私らのこと、ずっと写真に撮ってたでしょ!」

 ひいい…、ばれた! 

 僕は植え込みの中で硬直して動けなくなる。逃げたいのに、恐怖が勝ってそれ以上何もできない。このまま問い詰められても、上手く受け答えする自信が無かった。

 僕がガタガタと震えている間にも、佐藤恵奈はツツジの植え込みに怒鳴りながら近づいてくる。

「ちょっと! 聞いているの? おら! さっさと出てきなさいよ! そんなところに隠れていないでさあ!」

 ああ、もう駄目だ…。

 僕は観念すると、身体の力をすっと抜いた。

 すみませんでした。

 心の中で謝罪の練習をすると、脚に力を込めて植え込みの中から出ていこうとする。

「ごめ…」

「ごめんなさあああい…」

 ガサッ! と、植え込みが揺れる音がしたと思うと、立ち上がろうとしていた僕の右隣で、震えた女の声が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る