その③

「…………、しかし…」

 僕は頬を伝う汗を指で拭った。

 カフェを取り囲むツツジの木から、身を潜めて彼女の姿を観察するのは、いささか苦痛だった。

 日陰とは言え、直射日光で熱された地面から熱が這い上がり、植え込みの中に溜まっている。汗がダラダラと流れ出る。とにかく暑いんだ。カフェに来るまでに、佐藤恵奈を追うのに夢中になって走ったせいで、シャツの下にじっとりとした汗をかいて、背中にぴっちゃりとくっついていた。

「………暑い…」

 首筋の汗を拭う。

 あ、佐藤恵奈が単語帳を閉じた! なるほど、今日の進捗は十ページか! よし、記録しよう! と、ペンを持つ手も、次第に汗でぬめる。おいおい! 何をしているんだ! 佐藤恵奈のことを書くんだから、もっと綺麗な文字で書かないか! しっかりしろ、硬筆十三級!

 と、植え込みの中でもぞもぞとしていると、席に座って、メロンソーダをちゅうちゅうと呑んでいた佐藤恵奈が、突然声を上げた。

「あ! 圭太くん!」

 むむむのむ!

 僕の身体がびくっと強張る。

 ノートに書き記すことを後回しにして、植え込みの中からテラスを眺めた。

 佐藤恵奈は、まるで慈愛の女神アイスキュロスが花びらを舞わせるように微笑み、カフェに足を踏み入れてきた男に手を振った。

「こっちこっち!」

「よお、恵奈」

 カフェに入ってきたのは、ティターンを思わせる高身長の男だった。この暑い日差しをものともしない、細足に密着したジーパンに、清潔感のある白いTシャツ。その上から、ブランドもののジャケットを羽織っている。首には、高そうなネックレス。歩く度に、チャランチャランと、お金持ちのボンボンの音がした。

 きいっ! 

 僕はボールペンの先に噛みついた。力を込めるあまり、プラスチックの部分が、パキリと割れる。おっと、いけないいけない。これは佐藤恵奈と同じブランドで、同じデザインのペンだ。噛みついて壊すなんて、我ながら愚かなことをした。後で買いなおそう。一本百円だからな。そこまで高いものではない。うん、高いものを買わないという、その節約精神、すばらしい。素晴らしいぞ、佐藤恵奈!

 って、やっている場合じゃないな。

 僕は気を取りなおして、男を見た。

 男、いや、佐藤恵奈に付きまとうゴキブリは、席についている佐藤恵奈の頭を撫でた。

 むう…、何やってんだ? このゴキブリが。彼女の、絹のように柔らかく、ダイアモンドのように輝く黒髪は、お前のようなチャラ男が触れていいもんじゃないんだよ。国が違えば、お前なんてすぐに警察に取り押さえられて、牢屋にぶち込まれるさ。罰金、反省 懲役、死刑! ふふふ、ここが日本で助かったな。

「恵奈、もう昼食べたの?」

「うん、圭太君! もう食べちゃった」

 佐藤恵奈とゴキブリは、にこやかに会話を続けた。

「そっか、ごめんな。ちょっと、用事が長引いちゃってな」

「全然! 圭太君のためならずっと待てるから!」

「ははは、こいつう!」 

 ぐぐぐぐ…。

 僕は、またボールペンに噛みついていた。

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