忘れじの柿


「お、柿!」


 抜けるような青空を背景に、鮮やかな朱色に色づいた柿の実が、ポツンと一つ浮かんでいた。

 これは絵になる。

 俺は、レンズに収めるため、スマホを持った腕を伸ばした。



 それは、いつもの休日の午後の事だった。

 平日に溜まった仕事の疲れを大事な休日を浪費して解消する、という、なんとも虚しい長い眠りから覚めたのは、ほんの三十分程前の事で、時計の針は既に正午を回っていた。

 悲しいかな、眠っていても腹は減る。駅前のいつもの弁当屋まで、朝飯兼昼飯を買いに行こうと思い立った俺は、スウェットの上下のままモッズコートだけ引っ掛けて、ふらりとワンルームのアパートを後にした。


 幸いお天気は上々で、青く晴れた空のてっぺんに、筆で書いたような白い雲が長く伸びていた。

 俺が住んでいるのは一応ギリギリ都心から通勤圏内にあるベッドタウンの一つだ。この辺りを含む広い平野を「武蔵野」と呼ぶという事は、住み始めて何年か経ってから知った。

 ザッと辺りを見回すと、駅の近くには十階以上の背の高いマンションが立ち並んでいて、その外周に、もう少し背の低いマンションや、戸建て住宅の群れがある。俺が住んでいるのは、その安い方のマンションの一つだった。

 が、この辺りの駅は大体どこも同じ傾向なのだが、駅から離れると、途端に畑の面積が多くなる。

 そして、所々に雑木林がある。道路の脇に唐突に大きな欅の木が生えていたりする。こういう所が、いわゆる「武蔵野の面影」というやつなのかもしれない。


 最近とみに冷たくなってきた風に首をすくめながら、俺は、駅までの徒歩十五分の道を歩いていた。

 途中、広い敷地の家の横を通った。

 ブロック塀で周囲を囲った中には、数本の大きな欅の木をはじめとして、たくさんの樹木が植えられており、ちょっとした林のようだった。この周辺がベッドタウンとして開発が進む以前からある古い家なのだろう。


 その家の塀から、柿の枝がひょっこりと歩道の上にせり出していた。

 枝の先には、ちょうど食べ頃に色づいた柿の実が一つなっている。

(……おっと! これはなかなかバエるのでは?……)

 と思った俺は、足を止めて、スウェットのポケットからスマホを取り出し、カメラのレンズを向けた。

 俺は別に、特にいつも「いい写真を撮ろう!」などと意気込んでいる訳ではなかったが、さすがに最近SNSに載せる写真がラーメンばかりなので、趣向を変えるいいチャンスだと考えたのだ。

 が、その時……


「泥棒ー!!」


 しゃがれた大きな声が辺りに響き渡った。


「え? 泥棒? どこどこ?」


 俺はキョロキョロと辺りを見回し……

 箒を片手に真っ赤な顔で俺を睨んでいる一人の老婆に気づいた。


 歳の頃は、八十をゆうに過ぎているだろうか。身長は、背中が曲がっているのもあって、俺の三分の二程しかない。

 ほぼ白髪になり薄くなった髪を後ろで丸め、着古した割烹着を着ている。ひと昔前の日本人といった出で立ちのお婆さんだった。

 痩せて皺と骨の目立つせいで、元々小さな姿が一層老いて弱々しく見えていたが……

 細い目に宿る眼光だけは、恐ろしく鋭かった。


「このっ、柿泥棒ー! お爺さんの大事な柿を盗もうなんて、絶対に許さないよー!」

「え……泥棒って……お、俺ぇー!?」


 気持ちのいい秋晴れの青空に、裏返った俺の情けない声が響いた。


 

(……俺は一体何をやってるんだろう?……)


 見知らぬ老婆に「泥棒!」と言われてから、十分後、俺は脚立の上で自問自答していた。

 目の前には、大きな古い柿の木があり、そろそろ緑色が黄色や橙色に変わり始めた葉に混じって、たくさんの実がなっていた。

 その内の一つに手を伸ばしもぎろうとすると、すぐさま、脚立の下から老婆の鋭い声が飛んでくる。


「そっちじゃないよ! それはまだ青いだろう! その隣のやつだよ!」

「あ! は、はい!」


 確かに良く見ると、こちら側からは分からなかったが、裏面はまだ熟れていない黄緑色をしていた。

 俺は、隣の柿に手を移し、改めて柿を採取する。採る時は、力任せに真っ直ぐに引っ張るのではなく、手首を回して捻じ切るようにするのがコツだと、先程例の老婆から教わったばかりだった。


「柿の木を傷つけるんじゃないよ! お爺さんの大事な木なんだからね!」



「ち、ちち、違います! 俺は泥棒じゃありません!」

「そんなにうちの柿が食べたいのかい? まったく、しょうがないね。素直にそう言えば、分けてやるってのに。」

「え?……え? え?」


 塀の外に張り出していた柿の写真を撮ろうとしていた俺は、箒を手にした老婆に発見され「泥棒」と勘違いされた直後、なぜか、老婆にガッと手を掴まれていた。

 別に何も悪い事はしていなかったのだから、すぐにその場から立ち去れば良かったのだが、あまりに驚いてカチンと体が固まってしまっていた。

 その間に老婆は、スサササーッと俺に近づいてきて、スマホを持った俺の手をガッと掴んできたのだった。

 想像よりも素早い動作と、見知らぬ人間の腕をいきなり掴んでくる大胆さに、ますます驚きで思考と体が停止する。


「ほら! さっさとこっちに来るんだよ!」


 そうして、俺は、見事に老婆に捕獲され、勝手口らしい木戸を通り抜けて、ブロック塀で囲まれた広い敷地の中へと引きずり込まれたのだった。


 敷地の中には、古い日本家屋と、少し距離を開けて近代的な二階建ての家が建っていた。二台分の車庫には、現在乗用車が一台停まっている。

 古い農機具などが埃を被っている納屋らしき建物や、小さいが石造りの鳥居を持ったお稲荷さんまであった。

 それらの建物が、正門から続いてきた道の先に広がる庭の周囲を取り巻くように並んでいる。


 ブロック塀の外からは背の高い木々しか見えなかったが、中はこうなっていたのかと、思わずキョロキョロ見回してしまった。

 広い敷地だが、外周の雑木が林のようになっている場所以外は、雑草が抜かれ、地面も掃き清められていた。どうやら例の老婆が掃除をした後だったらしく、一角に掃き集められた落ち葉が山になっていた。


(……あれ? お婆さんは?……)


 いつの間にか、俺の手を掴んでここまで引っ張ってきた老婆の姿が俺の隣から消えていた。

 慌てて探すと、なんと、納屋の中から、大きな脚立を担いで運び出そうとしている。

 その老いを感じさせる細腕がブルブル震えているのを見て、俺は慌てて駆けつけていった。


「わああー! お、俺がやります! 俺がやりますー!」

「あんたが?……そうかい。まあ、うちの柿をタダで貰うんだから、自分で採るのは当たり前だね。」


 そういった経緯で、今俺はこうして、納屋から運び出した脚立を柿の木のそばに立てて、せっせと柿の実を採っている訳なのだった。


 誤算だったのは、二、三個採れば終わるかと思っていた柿採りが、なかなか終わらない事だった。


「いやぁ、今年は柿が豊作でねぇ。さすがに食べ切れないと思ってた所なんだよ。あんた、ちょうど良かったね。好きなだけ採っていっていいよ。」


「ああ、ついでに、うちのお爺さんの食べる分も採っておくれよね。お爺さんは柿が大好きで、一日五個は食べるんだよ。」


 老婆が言うには、熟した柿を放置しておくとカラスが寄ってくるとの事で、今赤くなっている柿を出来るだけ採るべしというのが、唐突に俺に課された任務だった。

 樹齢五十年余というのが本当かどうかは分からないが、とにかく大きく立派なその柿の木には、ザッと百個以上の柿がなっており、俺の任務はまだまだ終わりそうになかった。



「あら? どちら様?」


 突然、後方で老婆のものではない声が聞こえたのは、老婆が持ってきた竹のざる二つがもいだ柿でいっぱいになり、三つ目に突入した頃だった。

 慌てて振り返った俺は、今自分が脚立の上に居るという事を忘れ、一瞬うっかりバランスを崩しかける。


 見ると、エプロンを身につけた、小柄でふっくらとした熟年の女性が庭の入り口に立っていた。手に食料品の入った袋を持っている様子からして、いかにもスーパーに買い出しに行ってきた帰りといった感じだった。

 小さな目を見開いて、不思議そうな顔で、柿の実を採っている俺の姿をジーッと見つめている。


 混乱した俺は、思わず口走っていた。


「……あ、あの! 違います、違います!……俺は、泥棒なんかじゃありません!」


 そんな俺のトンチンカンな主張と共に、俺の腹が、ぐーぎゅるるるると空腹を主張して大きく鳴った。

(……そ、そう言えば、起きてからまだ何も食べてなかったんだっけ。……)

 俺は恥ずかしさで真っ赤になりながら、弁当屋に行く途中だった事を思い出していた。



「あら、まあ、それは、うちの母がすっかりご迷惑をおかけして。本当にごめんなさいね。」

「い、いえいえ! こちらこそ、こんな料理までいただいてしまって!」


 優しそうな熟年女性は、老婆の実の娘との事だった。

 確かに、良く見ると、顔立ちや背格好が老婆に似ていた。

 盛大に空腹を訴えた俺の腹の声を聞き、女性は俺を日本家屋の座敷に招いて、手料理を振舞ってくれた。


 座敷には、玄関を通らず、庭に面した縁側から上がった。

 今時、縁側のある家というのも貴重だが、障子や雨戸を開け放った座敷から見える草木に囲まれた庭の風景は、タイムスリップでもしたかのような古めかしくも懐かしいものだった。


「残り物ばかりで悪いわねぇ。こんな料理で良かったら、いくらでもどうぞ。あ、お味噌汁、お代わりよそるわね。」

 女性は申し訳なさそうに言っていたが、俺にとっては、随分しばらくぶりの家庭料理の味である。感動でうっかり涙が出そうだった。それに何より、空腹は最高のスパイスとも言う。

 俺は「遠慮しないでね。」という言葉に甘え、里芋の煮物に三つ葉のおひたし、ナスの浅漬け、ニラと油揚げの味噌汁などなどを惜しみなく味わった。


 食べながら聞いた話によると、老婆の娘さんである女性は、夫と共にこの敷地に住んでいるらしい。

 どうやら、二階建ての洋風な住宅は、娘さんご夫婦が使っているようだ。

 旦那さんは多忙なサラリーマンで、日曜日の今日も仕事に出掛けているのだとか。二台入る車庫になかったもう一台分の車は、旦那さんが乗っていったのだろう。

 ちなみに、女性には子供が二人居るが、どちらもとうに成人済みで、もう既にこの家を出ているとの事だった。


「お爺さんの分の柿を、ちゃんと取っておいてちょうだいよ! あの人は、帰ってきたらいつもすぐに食べたがるんだから。」


 庭の掃除を終えたらしい老婆がやって来て、縁側に置かれていたざるに入った柿の山から、色形のいい柿を選別し始める。その柿は、言うまでもなく、俺が先程まで必死に採っていた柿だった。

 十個程選り抜くと、また庭に出ていって、今度は鉢植えに水をあげ出していた。


「こんなにいっぱいの柿、とても食べきれないわ。ご近所さんに配らなくっちゃ。……あ、もちろんあなたも好きなだけ持っていってちょうだいね。」


 そう言って女性は、箪笥の下の棚に溜め込んでいるらしい紙袋を一つ取り出し、柿を入れ始める。

 その中に、先程老婆が「お爺さんの分」と言って、一番出来の良い柿を分けていたものが入っていた。


「あ、あの、それは、お爺さんの分なんじゃ……」

「いいのよ。一、二個あれば十分だから。最近ちゃんと木の世話をしてないから、あまり美味しくないかもしれないけれど、なるべく良さそうなものを持っていってちょうだいね。」


 女性はそう言って、手際良く柿の実を紙袋に詰めると、俺に手渡してきた。

 そして、なんとも言えない寂しそうな表情で、チラと座敷の奥の方を見やりながら、言った。


「お母さんも、最近だんだんボケてきてしまって。」


 視線の先には、先祖代々の位牌が納められた大きな仏壇が置かれており、その中央には、写真が飾られていた。

 農作業中に撮られたものか、首にタオルを巻き麦わら帽子を被った、良く日に焼けた老人が白い歯を見せて明るく笑っていた。


「昔はこの辺りの畑でいろいろな野菜を育てていたんだけれど、お父さんが死んでからは、もう世話を出来る人が居なくなっちゃってね。ほとんど畑は売り払って、今は裏に少し残っているだけなのよ。」


 俺は、しばらく言葉を失って、呆然と遺影を見つめたのち……

 手渡された紙袋の中から、先程老婆が選んだ綺麗な見目の柿を女性に返した。


「あの……やっぱり、これは、お爺さんに供えて下さい。」

「あら、まあ。あなた、いい人ね。」


 女性は嬉しそうに笑って柿を受け取ると、代わりの柿を袋に詰めてくれた。


「もし良かったら、また近くを通った時にでも、遊びに来てちょうだいね。……その時にはもう、お母さんは、あなたの事を覚えていないかもしれないけれど。」


 娘さんの言葉の通り、俺は、座敷での食事を終えて、縁側で靴を履いている所で、さっそく……

「あんた、誰だい! どこから入ってきたんだい!」

 と、錆びたジョウロを持った老婆に威嚇される事になったのだった。



「とっても元気で、ボケているようには見えないでしょう? でも、日に日にいろんな事を忘れていってしまうのよね。」


 水をやったり、枯れた花を取り除いたりと、丹念に庭の草木の手入れをしている老婆の姿を見つめながら、女性は寂しげに語った。


「……わ、分かります。……実は俺も、祖母が痴呆症になって。」

「あら、そうだったの? お婆さんはお元気?」

「いえ、もう、十年程前に亡くなりました。」


「俺はまだ大学生になったばかりで、祖母が病気で入院しても、試験で忙しいって言ってなかなか実家に帰らなかったんです。……本当は、面倒くさかっただけなんです。東京に出てきて、遊びたい盛りだったのもあって。」


「そうこうしている内に、祖母は亡くなってしまいました。俺は結局、祖母の死に目には会えませんでした。」


「……今でも、後悔しています。……歳をとってからはあまり話す事もなかったけれど、子供の頃は、あんなに俺の事を可愛がってくれたのに。」


 そう、この家のブロック塀の前で、老婆に腕を掴まれた時……

 俺は本当は、簡単に老婆の手を振り払う事が出来た。

 でも、それをしなかったのは……

 老婆の手が、あまりに痩せて細くて小さくて、その力も、悲しい程弱々しいものだったから。


 老婆に言われるまま敷地の中に入って、せっせと柿の実を採ったのも……

 ろくに見舞いに行かないまま永遠の別れを迎えてしまった、自分の祖母への罪滅ぼしのような気持ちがあったのだと思う。


「きっと、あなたのお婆さんは、孫がこんなに立派に育って嬉しいって、思っていると思うわよ。」


 女性は熟年らしい気安さと気遣いで、少し落ち込んでいる俺の腕を撫でながらそう言ってくれた。


「婆ちゃんがボケてから、何度か会って話もしたんです。婆ちゃん、もう俺の名前も顔も覚えていなくって。……それでも……」


「やっぱり、婆ちゃんは婆ちゃんなんですよね。」


「いろんな事を忘れてしまっても、そこに居るのは、間違いなく婆ちゃんだったんです。笑い方とか、喋り方とか、雰囲気とか、全然変わってなくって。見れば見る程、ああ、婆ちゃんなんだなって、思いました。」


 俺の独白のような言葉を聞いて、女性は、「とても良く分かるわ。」と深くうなずいてくれた。


 俺は、せっせと庭木の手入れをしている、腰の曲がった小さな老婆の背中を黙ってしばらく眺めた。

 早くも少し西に傾きはじめたうららかな秋の日差しが、大きな木々の枝葉の合間から、綺麗に掃き清められた庭の土の上に静かに降り注ぎ、風と共にチラチラと揺れていた。

 いくつもの欅の巨木と、未だたくさんの赤い実をつけている大きな柿の木。そして、秋色の草花に寄り添う小さな老婆の姿。

 それは、とても穏やかで優しく、そして酷く懐かしい、一枚の絵のような景色だった。


 「また来ます。」


 俺は深く頭を下げて女性に挨拶し、その家を後にした。



『ジャジャーン! ご近所さんから、柿をいっぱい貰っちゃいましたー!』


 というコメントと共に、その日俺がSNSにあげた柿の写真には、普段より多めの「いいね」がついた。

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