夏の咲く音


 その気持ちを、なんと呼んだらいいのか、まだ分からない。

 だから、誰にも言えない。


 ドオォン!


 鼓膜をピリピリと震わせて、辺り一帯に大きな音が響き渡った。

 ハアハアと、息を切らせて濡れた古い石段を駆け上っている途中だった灯は、ハッと空を仰ぐ。

 濃紺の宵空に、爆音から一拍おいて、大輪の光の花が咲いていた。



 灯は、いつの間にか立ち止まって、ぼんやりと紫陽花を眺めていた。

 シトシトと雨が降っている。

 もう十日も前に明けたとを聞いたのに、梅雨が戻ってきたかのような一日だった。

(……どうしよう……)

 住宅街の誰かの家の庭から通学路まではみ出していた紫陽花の茂みには、時季を過ぎた花の塊がまだ残っていた。

 ピンク色から水色まで、シャボン玉のように綺麗な色が混じっていた花も、今はすっかり色あせて茶色くなってしまっている。

 灯の家までは、もう五分とかからない場所だった。

(……家に、帰りたくないなぁ……)

 胸に溜まった黒雲は、灯の足を文鎮のように重くして地面に張りつけている。

 お気に入りの淡い黄色の傘の先から、ポツポツと雨の雫が目の前の紫陽花に零れていった。



「灯? どうかしたの?」

「あ……きょ、恭ちゃん。」

 思いがけず声をかけられて、灯はピクッと肩を震わせ振り向いた。

 そこには、紺色の傘を差した高校の制服姿の恭平が立っていた。

 その後ろを、バスが一台道の端に溜まった水を蹴立てながらスピードを上げて去ってゆく。

 おそらく恭平はそのバスに乗っていたのだろう。

 恭平の通っている進学校へはバスと電車を乗り継ぐと灯は聞いていた。

 まだ中学二年生の灯にとって、電車に乗って遠くの学校に行くのは、とても大人に思えた。

「……な、なんでも、ない。」

「でも、しょんぼり立ち尽くしてただろう?」

「しょ、しょんぼりなんてしてない……見てたの?」

「バスから見えたんだよ。」

 恭平は重そうなセカンドバッグを肩に担ぎ直しながら、日に焼けた顔に優しい笑みを浮かべた。

「何があったの? 話してみてよ。」



 灯は恭平と傘を並べて、家までの道をゆっくりと歩いた。

 小柄で歩幅の狭い自分に恭平が速度を合わせてくれているのに、灯は途中で気づいた。

「なるほど、夏祭りかぁ。」

「うん。……友達と三人で行こうって約束してたのに。お母さんにも、浴衣が着たいとか、お小遣いが欲しいとか、いろいろわがまま言っちゃった。」


 灯が通う中学校の近くにある神社では、夏休みが始まってすぐ、毎年夏祭りが行われていた。

 灯は、その夏祭りに、小学校の頃は両親と出かけていたが、中学になると友達と行くようになった。

 今年も仲良しの女友達二人と一緒に行こうとずっと前から約束していた。

 ところが、もうあと数日で夏休みになるという今日になって……

「ゴメーン、灯! 男の子から一緒に行こうって誘われちゃったー!」

「じ、実は私もー!」

 親友の二人が同時にパンと顔の前で手を合わせ、申し訳なさそうに謝ってきたのだった。

 二人には、前々からいいなと思っている男の子が居て、それぞれ誘われたらしい。

 夏祭りに男の子から誘われたり、男の子を誘ったり、という事があるのは灯も聞いてはいたが、自分を含めて親友二人にもまだ縁遠い話だと思っていた。

「あ、ううん! 全然いいよ! 二人とも良かったね!」

 彼女達が喜んでいるのに水を差すのは悪いと思って、灯は必死に笑顔を取り繕った。


「お母さんになんて言おう。一人ぼっちで行くのも嫌だから、今年は諦めるしかないのかな。夏祭り、楽しみにしてたのに。」

「うーん。……じゃあ、灯、俺と一緒に行く?」

「え?」

 思いがけない恭平の提案に、灯は目をまん丸くして彼の顔を食い入るように見つめた。

 冗談を言っているのでも、からかっているのでもないのが、恭平のお日様のように明るい笑顔から感じられる。

「……え、ええと……」

「……嫌だった?」

「う、ううん! 全然嫌じゃないよ!」

「じゃあ、一緒に行こう。」

「……う、うん。……」

 灯は、傘を倒して真っ赤になった顔を隠しながら、小さく答えた。


 

 恭平の家は灯の家のすぐ隣だった。

 そこは新興住宅地で、灯の一家が引っ越してきて半年と経たずに恭平の一家も引っ越してきたのだった。

「はじめまして、杉本恭平です。よろしくお願いします。」

 中学一年生の恭平は、ハキハキと喋りペコリと頭を下げた。

「ほら、灯も挨拶しなさい。」

 と、灯は父親にうながされたが、エプロン姿の母親の後ろにピッタリくっついまま最後まで一言も喋れなかった。

「……すみません、ちょっと人見知りな所があって。」

 父が困り果てた顔で恭平とその両親に謝っていた。



(……隣に越してくるなら、女の子が良かった。同い年の子が一番だったけど、年上でも女の子なら良かったのに。……)

 灯は、両親には言わなかったが、心の中でそう思っていた。

(……男の子は、苦手。何を考えてるのか、全然分からない。……)

 灯は、口下手で小柄だった事もあり、その頃クラスの男の子にからかわれる事が良くあった。

 廊下を歩いていると、いきなり後ろから髪や服を引っ張られたり、教科書に変な絵を落書きされたり。

 灯が大事にしているハンカチを「ちょっと貸して!」と言って持っていったかと思うと、グシャグシャに汚して返してきた事もあった。

 その一件があった翌日、灯はショックで学校を休んだ。

 両親は心配して担任の教師に相談したが、特に灯がいじめられているという事ではないと教師は語った。

「あのぐらいの歳の男の子は、そういうものなんですよ。」

 教師が注意してくれたらしく、それから男の子達は、灯の体や持ち物に無断で触ってくるような事はなくなったが、時々通りすがりに大声で何か意味不明な事を叫びかけてくる。

(……男の子、嫌い。うるさいし、下品だし、バカみたいだし。……)

 クラスの中には、そろそろ、とある男の子が好きだと言い始める女の子が居て、みんな盛り上がっていたが、灯にはそんな気持ちがさっぱり理解出来なかった。



 恭平が隣に越してきたのは、灯がクラスの男の子と口を聞かないようになってしばらたった頃の事だった。

 最初、灯は、恭平の事を警戒していた。

「おはよう、灯ちゃん。」

 恭平は灯に会うと、いつも笑顔で挨拶してきたが、灯は口の中でモゴモゴ言うばかりで、すぐに逃げるように立ち去っていた。

 それでも、月日の経つ内に、恭平はクラスの男の子とはちょっと違う、と灯は思いはじめた。

 いきなり服や髪を掴んだり、物を取り上げたり、大声で叫んだりといった乱暴な事は全然しない。

 いつも挨拶をきちんとして礼儀正しく、身なりも清潔だった。

(……この人は、他の男の子とは、何か違うのかも。……)

 そう考えるようになってからは、灯も、恭平に会って挨拶されると、返事をするようになっていった。

「おはよう、灯ちゃん。」

「……お、おはよう。……」



 だんだんと恭平に慣れていった灯だったが、一緒に遊んだ事は一度もなかった。

 家が隣同士という事で、顔を合わせる機会は多いものの、年が三つも離れていて、おまけに男の子なので、何を話したらいいのか分からない。

 一方で、灯と恭平の両親はすぐに打ち解けた。

 特に母親同士は気が合ったらしく、あっという間に、一緒にパートをする程仲の良い友人になっていた。



「灯、あなた、恭ちゃんに勉強教えてもらいなさい。」

 灯が母親にそう言われたのは、中学二年に上がる春休みの事だった。

 中学一年の終わりに貰った通知表で、二教科も成績が下がったのを両親にたしなめられたばかりだった。

「もう恭ちゃんには頼んで時間を空けてもらってるから、明日お家に行ってらっしゃい。」

 母親は、恭平の母を通じて既に恭平自身にも了解を取っていたらしく、灯は「嫌」と言う機会がなかった。

 仕方なく灯は、翌日手提げバッグに勉強道具一式を入れ、肩をすくめて恭平の家の門のベルを鳴らした。



 恭平の事を「乱暴な男の子ではない」と思っている灯ではあったが、また別の苦手意識があった。

「ホント、恭ちゃんたら凄いのよー! またテストで学年一位ですってー!」

 灯は、自分の母親から、恭平の噂を毎日のように聞かされていた。

 その話題のほとんどが、恭平を褒め称えるものだった。

 やれ、読書コンクールで賞を取ったの、生徒会役員になっただの、部活で県大会に出場しただの。

 どれも、成績は人並みで運動神経は人並み以下な灯には縁のない、まるで別世界の出来事だった。

 そう、灯の中で、いつしか恭平のイメージは、「完璧な人」になっていた。

 成績がとても良く、高校もすんなりとこの辺り一の進学校に合格し、高校では生徒会活動もしながら、サッカー部のレギュラーでもある。

 母親が夕食時に繰り広げる恭平の話に、灯の父も、まるで自分の子供の活躍を聞くように、いつも楽しく耳を傾けていた。

「いいなぁ。うちにも男の子が居たら、恭ちゃんのような子が良かったなぁ。」

 息子とキャッチボールをするのが夢だったと熱く語る父親を横目に見つつ、灯は肩身の狭い思いで晩ご飯を黙って口に運んだ。

(……どうせ私は、人に自慢出来るようないい所なんて、なんにもないですよーっだ。……)

 両親は灯を恭平と比べるような事は言わなかったが、灯としては、三つ年上の決して敵わない兄を持っているような気持ちになったのだった。



「いらっしゃい、灯。母さんは、昼に一度帰ってくるって。それまでは、二人で勉強しよう。」

「お邪魔します。」

 恭平は、訪れた灯をリビングに招いた。

「寒くない? 飲み物は、紅茶とジュース、どっちがいい?」

 恭平は、灯に気を使って、クッションやひざ掛けを渡し、暖房を調節してくれたり、飲み物を勧めてくれたりした。

 そうして、二人で勉強をしている内に、最初は少しこわばっていた灯の顔も、緊張が解けて穏やかになっていった。

「あ! そうか、分かった! ここでは、この公式を使うんだね?」

「そうそう。……うん、灯はほとんど基礎は理解出来てるよ。応用問題は、とにかく数をこなすといいよ。後で昔使ってた参考書をあげるよ。」

「ありがとう、恭ちゃん。」

 恭平の教え方は親切で、灯は次々問題を解いていった。


 やがて昼になり、恭平の母親がパートから一旦帰ってきた。

「二人とも、お昼ご飯が出来たわよ。」

 呼ばれてダイニングキッチンのテーブルに着くと、サラダのついたオムライスが運ばれてきた。

「私、オムライス大好き!」

 喜んで、「いただきます」の挨拶の後に食べはじめた灯だったが、ふと見ると向かいの席の恭平が、見た事もないような渋い表情をしていた。

 せっかくの作りたてのオムライスも、あまり減っていないようだ。

 どうしたのだろうと思っていると、恭平の母が苦笑いして、パンッと恭平の背中を叩いた。

「恭平、アンタ、グリンピース残しちゃダメよ。灯ちゃんに笑われるわよ。」

「母さん! 余計な事言わなくていいから!」

「え?……恭ちゃん、グリンピース嫌いなの?」

 灯は目をまん丸くして、決まり悪そうな顔でスプーンを口に運んでいる恭平を見つめた。


「……フフ!……」

「灯、まだ笑ってる!」

「だってー。」

 恭平の母親がパートに戻っていった後、二人きりでオムライスを食べながら、灯は時々思わず笑いを漏らした。

「完璧人間の恭ちゃんに苦手なものがあるなんて、思わなかったから。」

「完璧人間? 灯って、俺の事をそんな風に思ってたの?」

「恭ちゃんは、勉強も運動も出来るし、みんなの人気者でしょ。」

 灯は、皿の上のグリンピースをスプーンの先でつつきながら、つぶやくように言った。

「私は、全然いい所がないから、羨ましいなぁって。」

「俺は全然完璧なんかじゃないよ。」

 恭平は、いい成績を取るためにいつも必死に勉強している事や、部活で生徒会で先輩達についていけずに悩んでいる事など、いろいろ灯に話してくれた。

 寝起きが悪くて、部屋に三つも目覚まし時計があるとか、良くトイレのスリッパを間違えてそのまま履いてきては、母親に叱られるとか。

 今まで知らなかった恭平の意外な一面に驚きつつも、灯は夢中で耳を傾けていた。


「灯には灯のいい所がいっぱいあるよ。灯が気づいてないだけだよ。」

「そうかなぁ?」

「うん。それに、灯は可愛いし。」

「か、可愛い?……そ、そんな事ないよ! 私、全然可愛くないよ!」

 灯は、真っ赤になって、珍しく早口になる程必死に説明した。

 自分なんかより、同じクラスの人気者の女の子の方がずっと可愛い事や、雑誌に載っているモデルの女の子のような子が、本当に可愛いと言うんだと。

 恭平は、灯の話にジッと耳を傾けていたが、フッと口を開いた。

「俺は、灯のクラスの子とかモデルの子とか知らないけど、誰かと比べる必要はないんじゃないかな。」

 ニッコリ笑って恭平は言った。

「俺は、灯は可愛いと思うよ。」

 その後、恭平は「うちの両親が、灯ちゃんみたいな可愛い女の子が欲しかったって、良く言ってるよ。」と喋っていたが、灯の耳にはぼんやりとしか聞こえていなかった。

(……わ、私、可愛いの?……恭ちゃんは、私の事、可愛いって思ってるの?……)

 思わずジッと見つめていると、恭平と目が合った。

 その時、ドクンと心臓が大きく鳴った。


 そして、その心臓の音は、それから恭平に会うたびに、だんだん大きくなっていった。



 夕立が過ぎた後のオレンジの色の夕焼けが、今はもう、西の空に消えようとしていた。

(……恭ちゃん、この浴衣、可愛いって言ってくれるかな?……)

 灯は、自分の部屋の姿見の前で、いろんな角度から浴衣姿の自分を穴が開く程見つめた。

 お気に入りのヘアピンをつけてみたり、外してみたり、リップクリームの色が濃過ぎると思って拭いては、薄いような気がして、またつけ直す。

「あーかーりー! もうそろそろ出かけないと、間に合わないわよー!」

 母親に急かされて、ハッと我に返り、時計の針を見て青ざめた。

 両親にからかわれるのが恥ずかしくて、恭平とは、お祭りの神社で待ち合わせる約束にしたのだった。

「行ってきまーす!」

 灯は元気に宵闇の中に走り出していった。



 神社へと続く雨に濡れた古い石段を、慣れない下駄を履いた足で駆け上がる。

 浴衣の裾に描かれた金魚がヒラヒラ揺れ、灯の赤い帯もヒレのように夜風を泳いだ。

 夜の訪れと共に咲き出した石段の脇の白粉花の甘い香りが、息を吸うたび胸の奥までいっぱいに入り込んでくる。


 ドオォン!

 大きな音が響き渡り、灯は思わず足を止め、空を仰いだ。

 濃紺の空に、大輪の光の花が咲いていた。

 待ち合わせの場所まで、後少し。


 この気持ちを、なんと呼んだらいいのか、まだ分からない。

 だから、誰にも言えない。


「灯!」

 階段の上から、恭平の声が聞こえた。

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