夏の羽音


 とても暑い日だった。

 僕は道を歩いていた。


 周りはのどかな丘陵である。

 緩やかな起伏には、畑や野原が敷き詰められ、所々に雑木林の濃い緑色の固まりが盛り上がっている。

 道はなだらかに登っては下り、蛇行してずっと遠くまで続いていた。

 舗装などされていない剥き出しの地面の道だった。

 時折土の中から大きな石が顔をのぞかせ、蟻が甲虫の死体をせっせと運んでいった。

 道の脇には、草原から一続きになっている下草の勢いが迫りつつあった。

 誰が植えたのか、時折、標識のように向日葵が明後日の方向を向いてポツリポツリと立っていた。


 道の向こうには、海が遥か遠くに見えた。

 空に浮かんだ巨大な真綿のような雲の合間から、斜めに光の帯が幾本も海に差し込んでいた。

 光の当たった海が、くしゃくしゃになった銀紙のように、彼方でキラキラと光っている。

 いっその事、あの海で泳ぎたい、と僕は思った。

 しかし僕には他に行く用事があり、海はとても遠くにあった。


 僕は何度も手にした白いハンカチで汗を拭った。

 長い間炎天下を歩いている内に、シャツがすっかり体に張り付いてしまっていた。

 額を拭き、首を拭き、顎を押さえ、時には被っていた帽子を頭から取って、うちわ代わりにパタパタと扇いだ。

 それでも、暑さから逃げるすべはなく、頭上の太陽は苛烈で、遥かな海は涼し気だった。 


 ふと、僕の前を歩いている人物が居る事に気付いた。

 小さな男の子とその手を引く若い母親である。

 母親は黒い髪を結い上げ、日傘を差していた。

 男の子は白いTシャツに紺色の短いズボンを履き、麦わら帽子を被っていた。

 若い母親は男の子の小さな手をしっかりと握りしめ、二人は何か楽し気に話しながら歩いている様子だった。


 熱気で揺らぐ景色の中、僕はぼんやりと、前方の仲の良さげな親子を見つめていた。

 僕の方が歩く速度が速いので、徐々にその二つの背中が近付いてくる。

 相変わらず何を話しているのか、その内容までは分からないが、二人はずっと喋りながら歩いている様子だった。

 主に小さな男の子が一生懸命語りかけ、母親が頷いて聞く構図だった。

 ……鳥……

 一瞬、そんな言葉が、男の子のまだ舌足らずの声の中に混じっていたような気がした。


 段々と近付いてくると、男の子の白いTシャツの背中に何か模様があるのが見えた。

 真っ白だと思っていたが、実は何かが描かれていたらしい。

 しかし、それはとても奇妙な絵柄だった。

 鳥の足跡が点々とついているのだ。

 Tシャツの左の裾から、右肩に向かって、小さな鳥の足跡が続いている。


 まるで鳥が本当にその上を歩いたかのようだ。

 僕はそんな事を思わず空想した。

 だとしたら、男の子のTシャツの上を歩いていった鳥はどこに行ったのだろうか?

 もしかすると、少年の小さな肩口から、この真夏の空へと飛び立っていったのかもしれない。


 そう、僕が思い描いた途端、バササ、と大きな羽音がすぐ近く、僕の背中で聞こえて……

 何かが、彼方の海へと向かって一直線に飛んでいった。

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