てのひらかたり

綾里悠

まどろむ夏


 夕立と呼ぶにはまだ早い時刻の激しい通り雨は、あっという間に過ぎ去っていった。

 アスファルトの所々に、真っ青な空と白い入道雲を映しだすピカピカな鏡を幾つも撒き散らして。

 後はもう、近くの公園のケヤキ辺りに集っているらしい蝉の大合唱が、何事もなかったかのように響き渡り、肌に纏わり付く生暖かい湿気が、空気中に飽和していた。


 僕はそっとストローを吹いた。

 その日のアイスコーヒーに浮かべられた氷に深いくぼみを見付けたのだ。

 製氷機の関係だろうか。直方体の氷の一面に、穴を掘ったかのようなくぼみが途中まで出来ていた。

 そのくぼみに向けて、そっと、そっと、ストローの先端に送った息を掛けていくのだ。

 そうすると、氷は少しずつ溶けていく。くぼみはますます深くなる。

 詳しい理論は知らないが、ストローで息を吹き掛けると氷が溶けるという事だけは、いつからか知っていた。

 全く実生活では役に立たない知識だったが、僕の記憶の引き出しの中では、子供の頃から忘れられる事なく保管されている一つだ。


 そっと、そっと、息を吹く。

 少しずつ、少しずつ、氷を溶かす。

 最終目標はもちろん、くぼみをとことんまで深くし、やがては逆側の面にまで伸ばして、完全に氷の真ん中に穴を開ける事だった。

 特に意味のない行為だ。

 特に意味がないからこそ夢中になる。


 時々、溶けた氷の水がくぼみの中に溜まって、息を吹いた時にブクブクッと小さな音を立てると、僕は慌てて水を吸い取ってコンディションを整えた。

 場所は行きつけの喫茶店である。

 他にも何人か客の居る店内で、いい大人がアイスコーヒーをブクブクやるのは格好がつかないし、そもそもそんなマナーの悪い事が許されるのは、物心がついていない小さな子供だけだ。

 当然僕は品行方正な大人なので、誰にも悟られないように、そっとストローを吹いた。

 そう、これは、決して他の人間に知られてはならないミッションなのだ。


 何分そうしてこっそりストローから氷に息を吹き掛けていただろうか。

 苦労のかいあって、ようやく反対側の面にくぼみが到達した。

 氷は完全に穴をあけられ、ストローで貫かれて、ビーズのように宙に浮かんだ。

 僕が密かに達成感を噛みしめていると、向かいの席から声が飛んだ。

「ねえ、話聞いてた?」

「うん。」

 とっさに僕は笑顔で頷いた。

 先程から彼女は何やら難しい仕事の話を、やや眉間に皺を寄せてとうとうと語っていたのだが、僕はそれを、喫茶店に流れるBGMとごちゃ混ぜにして耳に流し込んでいるだけだった。

 別に特に問題はない。長い付き合いなので、少し不機嫌そうな顔をしていても、それほど深刻な事案を抱え込んでいる訳ではないのは分かっていた。

 そう、彼女はただ僕に仕事の愚痴を話したかっただけで、吐き出す事でスッキリするといういつものパターンだった。

 小一時間程前から、特にする事のなかった僕らは、馴染みの喫茶店でアイスコーヒーとレモンジュースを飲みながら、そんな時間を過ごしていたのだった。

「ねえねえ、ところで、見てこれ!」

 僕は彼女に、自分のアイスコーヒーのグラスの上に、先程穴を開けた氷をストローで刺して持ち上げ、自慢げに見せびらかした。

「穴空いた!」

「もう!」

 彼女は大げさに溜息を吐きながら、椅子の背中に体重をあずけるようにのけ反った。

「やっぱり聞いてなかったんじゃない。」

「いや、聞いてたよ。大体は聞いてた。うん。」

「まったく。いつもそうなんだから。分かってたけどね。」

 彼女は膨れっ面でそんな事をブチブチ言っていたが、グイッとまた体をテーブルの上に近付け、自分のグラスに入っていたストローを手にした。

 そして、ふう、ふう、と氷のくぼみにそっと息を吹き掛け始めた。

 僕も負けじと、また、新しい氷を物色し、くぼみの深そうな物にストローを寄せる。


 真昼の暑さが和らぐには、まだしばらく時間が掛かりそうだった。 

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