第2話
世間では母親を救えなかった警察への非難が集まっていた。その後、病院に救急搬送された犯人である父親も、意識が戻ることなく死亡したとマスコミに発表すると、非難の声はさらに高まった。
立てこもった後、一切の交渉を拒否した犯人。突然発生し突然幕を閉じた事件の真相は分からぬまま。生き残った息子は、マスコミに報じられることがないよう、慎重に地方の施設へ送られた。
そんな事件から十年の月日が流れてもなお、ひとりの刑事は真相の解明を諦めていなかった。
「遠くに明かりが見えるね。またいつものようにその光に帰るんだ。そこに向かってゆっくり歩いて。……おかえり。目を開けて」
高校の制服を着た少年が、目を開けた後何度かゆっくりと瞬きをした。
「先生、何か分かりましたか?」
毎度のやり取りだ。もう何年も続いている。そして医師の答えもこの数年決まっていた。
「まだ曖昧だね。お疲れさま。また依頼が来たら頼むよ」
医師からやや離れた位置に、スーツ姿のくたびれた男が立っている。医師は少年とその男を交互に見ながらそう返した。
「そうですか。じゃあ、また。失礼します」
少年は軽く頭を下げると、その部屋に医師と男を残して去っていったが、スーツの男の方へは終始視線を向けなかった。
「で、刑事さんの方は何か進展は?」
医師が白衣を脱ぎながら席を立ってスーツの男に訊ねた。その問いに対する答えも、やはりこの数年変わりがなかった。だが、最後に付け加えられた言葉は、初めて刑事が口にした言葉だった。
「いや、何も。また先生には来月お願いすることになりそうです。ただ、今度が最後になるかもしれません。自分も来月定年ですので」
ヒプノセラピー。いわゆる催眠療法を使い、幼少期の記憶を呼び戻す。立てこもり犯の息子である彼に対して、捜査上できることは限られていた。
そんな彼は、ヒプノセラピーを受けた後、必ず向かう先があった。
毎回違う道順で向かう同じ目的地。電車に乗っては戻り、戻っては折り返す。
辿り着いた郊外の家のインターホンを鳴らすと、少年にとっては聴き慣れた女の声が返ってくる。
「どうぞ」
その声に返事はせずに、玄関ドアを開ける。その先には、ごく普通の主婦に見える女がいた。歳の頃は三十にも見えるし、四十と言われても納得できる。よく観察すれば「普通」を演じていると気付くだろうその女は、少年がリビングに入るとともに、ソファテーブルの蠟燭に火をつけた。
少年には秘密があった。父と交わした秘密だ。
その秘密を守るため、彼はこの女に心を守ってもらっている。決して他人に覗かれることがないように。秘密を漏らしてしまわないように。
少年は女の指示がある前から床に直接座り、揺れる蠟燭の炎を見つめていた。
「炎の中心は貴方の心。熱い炎に守られて、誰もあなたの心には触れられない」
少年の瞼は徐々に重くなっていた。同時に、心が落ち着きを取り戻していくのが分かった。
刑事と共に訪れていたヒプノセラピーでささくれ立たされた心が、奇麗な球体に戻っていくような感覚だ。球体は外部からの衝撃に一番強い形だ。少年はその形のイメージを思い浮かべ、女の言葉に耳を傾けていた。
いつもと同じ。何年と続けられてきた作業。だが、今回はひとつだけ今までと違っていた。
女の言葉を、離れた場所で聴く人間がもうひとりいるということだ。それは、来月で定年を迎えるあの刑事だった。
当然ながら盗聴で得られた情報は裁判の証拠としては使えない。発覚すれば、違法捜査として刑事の方が罰せられることも考えられる。それでもその刑事が方法を選ばず真実を求めたのは、刑事としてというより、ひとりの人間としての好奇心だった。ある秘密を偶然知ってしまったが故、その秘密の先にあるものも知りたくなったのだ。
明らかに少年は隠し事をしている。そう感じていた刑事は、心理的、精神的捜査方法で先を行くFBI捜査官に個人的に師事し、何度となく相談していた。
その結果、少年は第三者により精神的なバリケードを構築されているという結論に至った。だが、彼は被害者であり、未成年だ。強引な捜査はできなかったし、上司も世間からも忘れられかけている事件に、いつまでも執着しているその刑事に良い顔をしてなかった。
そこで、定年間際に大博打に出たのだった。
女に対する逮捕状は、複数の医師法に関する違反で簡単に取れた。その仕事内容と比較すると、不自然なほどに多い定期的な入金も明らかになった。
「父親と交わした最後の会話。ようやく知れる時が来るのか」
刑事は、これまでになく静かな表情を浮かべて、ヒプノセラピストの質問に答える少年に不思議な緊張を覚えた。
これまでの捜査の中で、何も掴めなかったわけではない。
DNA検査で、少年の母親は、殺害された妻ではないことが分かっている。だが、戸籍上では二人の実子であるとされていた。
医師からの出生証明書に不審な点はなかった。父親ならばまだしも、母親が戸籍上と違うという事態は、相当な不正を重ねなければ起こりようがない。
「できないよ、お父さん」
瞼をきつく結んだ少年が、まるで幼い子供のような口調で口にした。口の端からは、だらしなく涎が垂れている。深い催眠状態にあるようだ。刑事は身を乗り出したが、ヒプノセラピストが手のひらでその動きを制した。
「大丈夫だよ。ここは安全だから、何をするのか言ってごらん」
少年は首を激しく横に振っている。刑事は、あの時赤外線スコープで見た光景が蘇っていた。
カタカタと細かく震えていた少年の目が突然開いたかと思うと、刑事の顔を見つめて口を開いた。うっすらと笑みを浮かべて。
「できないよ、ひとりで宿題なんて」
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