Phase 03 生死の狭間

 病院の集中治療室で、僕は綺世に例のぬいぐるみを手渡す。碧は「気休め程度でしかない」と言っていたけれども、矢張り僕としては綺世に意識を取り戻して欲しい。そう願いつつ、僕は集中治療室のベッドの横にあった椅子へと腰を掛けた。

 それにしても、僕はこの心電図の無機質な音が苦手だ。自分に対して「生きている」という事を伝えるためのサインなのは分かっているのだけれど、同時に「死の淵に立っている」ということを伝えるためのサインなのではないかと思っている。それは、自分が実際にこのベッドの上で昏睡していた事があるからなのかもしれない。

 綺世の心拍数は70前後を指している。人間が普通に生きる上での心拍数は、大体そんなものだっただろうか。しかし、綺世は目を覚ます気配がない。もしかしたら、このまま植物人間になってしまうのだろうか。心拍数は徐々に下がっていく。確か、心拍数が50を下回ると危ないんだっけ。やがて、心電図は警告音を鳴らす。よく見ると、心拍数が35を指していた。このまま、綺世は死んでしまうのだろうか。そんな事、あってたまるか。僕はたまらずナースコールを押した。

「どうしましたか?」

「僕の友達が、危篤きとくなんです」

「えーっと、信濃綺世さんのご友人ですか?」

「はい、そうです」

「確か、例の火災事故でビルの5階から飛び降りてそのまま頭を打ち付けたと。それから、1週間ぐらい眠ったままですね。そろそろ目を覚ましても良さそうなんですけど……」

「どうにか、友達を救えないでしょうか」

「私はただの看護師です。あなたと同じく、患者を見守ることしか出来ません」

「ですよね……」

「でも、電気ショックを与えることは出来ます。少し待っていてもらえないでしょうか」

「電気ショックですか。それで綺世は本当に意識を取り戻すのでしょうか?」

「確率は半々です。意識を取り戻すかもしれないし、逆に死んでしまうかもしれません」

「じゃあ、僕は『意識を取り戻す方』に賭けます」

 こうして、看護師さんは急いで電気ショックの機械を持ってきた。そして、綺世の胸にパッドを装着させる。恐らく、心臓に電気を送るためのパッドだろう。こんなもので綺世が意識を取り戻すとは思えないのだけれど、今は祈るしかなかった。

 電気ショック1回目。綺世は大きく息を吸うが、意識を取り戻すには至らない。相変わらず心電図は警告音を鳴らしている。

 電気ショック2回目。逆に、綺世の心拍数が上がってしまう。恐らく、心臓に電気ショックを与えたことによる影響だろう。心臓の鼓動が、こちらまで伝わってくるようだった。

「次で最後です。これで意識を取り戻さなければ、ご友人の事は諦めて下さい」

「分かっています。その覚悟は出来ています」

 こうして、看護師さんは電気ショックのスイッチを入れた。心拍数は150を指している。果たして、本当にこれで綺世の意識は覚醒するのだろうか。なんとなく、僕は「綺世が死んでしまう」ことが怖かった。今まで、「死ぬこと」について真面目に考えたことが無かった。けれども、例のホストに刺されてから「死ぬこと」について真面目に考えるようになった。

 人間は死んだら天国か地獄に行くと言う。しかし、本当は魂が抜けて「無」に帰るのが正解なのだろう。つまり、そこにある死体はただの「モノ」にすぎない。つまり、斎場で焼かれる時の死体は「モノ」と同等である。実際に、僕が死ぬ時はどうなるのだろうか。意識が遠のいて、視界がぼやけて、心臓の鼓動が遅くなって、そして体の感覚が徐々に無くなっていくのだろうか。出来れば、僕が死ぬ時は色んな人に看取られて死にたいと思う。だから、僕はまだ死ぬ時ではない。

 そんな事を考えながら祈っていると、心電図が一瞬止まった後に、綺世は目を醒ました。

「ここは、どこだ」

「集中治療室だ」

「僕は、どうなっているんだ」

「窓から飛び降りて、頭を強く打った。そして、死の淵を彷徨っていた」

「そうか。僕は死にかけていたのか」

「あの看護師に感謝するんだ。僕が呼ばなかったら死んでいたことになる」

「看護師さん、ありがとうございました」

「いえ、私は言われたことをやっただけです。信濃綺世さんのご友人でしたっけ? あなたは信濃さんの事をどう思っているんですか?」

「大切な仲間だと思っています」

「そうですか。友達は大事にしてくださいね。では、私はこれで」

 こうして、看護師さんはその場から去っていった。やれることをやったのだから当然だろう。それから、僕はアジトが変わったこと、彰悟が颯天会に潜入していること、そして僕たちに祖露門の魔の手が迫っている事を説明した。

「そうか。矢張り、火炎瓶を投げ込んだのは祖露門のメンバーか」

「あの雑居ビル火災について報道規制が敷かれているから当然だ。警視庁も、半グレ集団の犯罪である事を公表したくないのだろう」

「それで、僕に何か出来ることはないのか」

「今は退院する事が最優先だ。話はそれからだ」

「そうか。それにしても、このぬいぐるみは何なんだ?」

「ガゼラのぬいぐるみだ。綺世にとってのお守りだろ?」

「どうして、それを知っているんだ」

「ガラケー時代からストラップに付けていただろ。ボロボロになっていたから、碧が修理してくれたんだ」

「そう言えば、僕のスマホはどうなったんだ」

「残念だが、スマホは画面が割れて電源が入らない。律の方で非常用のバックアップは取っているから、退院したらそのデータを持って携帯電話ショップへ向かうんだ」

「……わかった」

「まあ、スマホが身代わりになってくれたのだろう。感謝するんだな。僕は仮のアジトへと戻る。毎日見舞いには来てやるから、待っていろ」

「ありがとう」

 こうして、僕は集中治療室を後にした。なんとなく、7月の夕日と言うのは蒸し暑くて眩しい。ヒートアイランドと言われて久しいが、純粋な東京育ちの僕からしてみれば、それが当たり前だと思っていた。けれども、当たり前だと思っている事が実は当たり前じゃないこともある。ヒートアイランド現象だって、地球温暖化が招いた自然現象だという。人間のエゴによって、自然が壊されたのだ。特に、東京というのは日本の中でもエゴの塊で構成されている場所である。だから、欲望に塗れた歌舞伎町のような街が産まれるのだろうけど。


 仮アジトに戻ると、碧が冷たい麦茶を淹れて待っていた。

「その様子だと、信濃くんは意識を取り戻したようね」

「そうだ」

「それで、これからどうすんのよ」

「まずは、綺世が退院するのを待つ。そして、颯天会に潜入している彰悟から適宜情報を聞き出す。そして、最終的に僕たちの手で祖露門をぶっ潰す。それだけの話だ」

「本当に出来るの?」

「やってみないと分からない」

「そうね。何事もやってみなければ始まらないよね」

「その通りだ」

「アタシも何か協力できることはないの?」

「そうだな……例えば、部屋の掃除をするとか」

「悪かったわね、部屋が散らかっていて」

「冗談だ。とにかく、少しでもトラブルの解決に着手するんだ。やるべきことリストはここにある」

「うわっ、こんなにあるの?」

「当たり前だ。アイドルの闇を暴いてから僕たちに寄せられる相談は後を絶たない。もしかしたら、この中で祖露門や颯天会に繋がる糸口も見つかるかもしれない」

「分かったわ。アタシも協力してあげる」

「ありがとう」

 やるべきことリストに溜まっていたトラブルは十数件に及んでいた。少しでも祖露門や颯天会への手掛かりが見つかることを祈りつつ、僕たちはトラブルを解決すべく再び動き始めた。


 ――絶対に、この手で祖露門を潰してやる。

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