Phase 02 奇妙な暗号

【野菜・アイス売ります 都内・川崎手押し】


 律は、僕にスマホを見せてきた。毳毳けばけばしい絵文字が、所狭しと並んでいる。アイスというのが覚醒剤の隠語だということは分かるのだけれど、野菜と手押しは一体どういう隠語なのだろうか。僕には分からなかった。

「という訳で、鯰尾君。これが別の依頼で送られてきたメッセージだ。依頼人が怪しいダイレクトメッセージだと気付いたから良かったけれども、これがもしも薬物の密売だったら大変だ」

「依頼人って、どういう人物だったんだ?」

「なんだか、女子高生の母親とかそんな感じだったような気がする。彼女が言うには『娘の元に変なメールが送られてきたから調査してほしい』とのことだった。本来なら警視庁に相談すべき内容なんだろうけど、仮に娘が本当に薬物に手を出していたら、逮捕されるかもしれない。だからこそ、僕たちを頼ったんだ」

「なるほど。母親は娘を守るために警視庁に相談する前に僕たちを頼ったわけだな」

「流石鯰尾君、考えが鋭い」

「これぐらい、当たり前のことだと思いますよ」


 それにしても、「手押し」業者を突き止めてほしいとはどういう事なんだろうか。歌舞伎町全体で、子供たちによる薬物汚染が広がろうとしているのか。確かに、多感な時期の子供はダイレクトメッセージの隠語を見て、「それ」が薬物だと気づかずに手を出してしまう可能性が高い。実際に、どこかの街で薬物汚染が広がって高校生たちが一斉検挙されたという事例を聞いたことがある。彼らは、自分の将来を自らの手で棒に振ってしまったということになる。そんな事、あってはならないしあってしまったら困るのだ。今回の依頼人だって、キャバクラに務めているとはいえ18歳で、まだ未成年だ。キャバ嬢をやっているというのも、恐らく薬物を購入するための資金を稼いでいるのだろう。あどけない少女に迫る薬物の魔の手。その魔の手を、僕たちの手で断ち切らなければならない。しかし、どうすればいいのだろうか。あまりにも情報が少なすぎる。


「なあ、薫。その『手押し』ってヤツ、僕に心当たりがあるんだけど」

「綺世、それはどういう事なんだ」

「今更説明するのも野暮だけど、僕は裏社会に対して顔が広い。だから、『手押し』業者も何らかの形で追い詰める事が出来るかもしれない」

「なるほど。ここは綺世の言葉を信じてみるか」

「ああ、助かるよ」

 信濃綺世という人物は、この歌舞伎町で生まれ育ったと言っても過言ではない。シングルマザーの元で育った彼は、幼い頃に母親に棄てられた。母親は恐らくネグレクト、つまり子供を育てる事が厭になったのだろう。そして、彼は歌舞伎町の風俗店のオーナーに拾われた。歌舞伎町の風俗店と言うのは、欲望の塊である。だから、綺世は毎晩男女の営みを見て育ったのだ。故に、ヤクザや半グレとも付き合いがあったりする。それが悪いことだとは思わないのだけれど、矢張りそういう友達を持っているということは彼の印象を悪くしてしまう。それでも、歌舞伎町のトラブルを追っている僕たちにとって、貴重な情報源であることには変わりはない。

「そういうわけで、『手押し』に関して情報を拾ってくるから少し待っていろ」

「分かった。綺世、くれぐれも気をつけてくれ。最近歌舞伎町で危険な半グレ集団が跋扈ばっこしているらしいからな」

「それぐらい、分かってますってば」

「だったらいいんだが」

 綺世を見送った後で、僕はデスクに貼られた付箋ふせんを見つめる。記憶が2日間しか保てない僕にとっては、スマホの写真とチャットアプリのログ、そしてデスクに貼られた付箋だけが頼りである。もちろん、拓実は僕のためにメモを取っているのだけれど、取られたメモだけだと記憶に限りがある。だからこそ、重要な事は付箋に書いてデスクに貼ってあるのだ。

「えーっと、明日は燃えるゴミか。いや、そんな事はどうでもいいんだけど。それよりも、あの手押し業者を追い詰めるために何が出来るのだろうか」

 僕は、悩んでいた。仮に「アイス」が覚醒剤だとしたら、「野菜」は恐らく大麻だろうか。確かに、覚醒剤も大麻も使ってはいけないモノだ。しかし、三笘直子が使っていたのはMDMAで間違いない。あの手押し業者はMDMAを販売していないのだろうか。いや、そんな事はないだろう。何か、他に手掛かりが欲しい。


「鯰尾君、随分と悩んでいるようだな」

「ああ、律か。綺世に頼んで三笘直子に対してMDMAを売りつけた手押しと呼ばれる業者を追っているんだけど、あれから返事がない」

「確かに君は記憶が2日間しか保てないが、そう焦る必要はない。そのうち返事が来ると思うぞ」

「だよな。記憶が保てないというのは探偵として致命傷だけど、その分他の人物が僕をサポートしている。だから、過不足はない」

「そうそう。その心意気が大切だ。それより、鯰尾君は『テレグラム』を知っているか?」

「何だそれ?」

「匿名のチャットツールなんだけど、オニオンルーティングと呼ばれる通信技術でやり取りを行うから、要するにチャットの痕跡が残らないらしい。恐らく、三笘直子はテレグラムを使って薬物のやり取りを行っていたと思われる」

「どうしてそう言い切れるんだ」

「三笘直子のスマホに、テレグラムのアプリがあったからだ」

「そうか。しかし、それだけが理由になるとは思えないけどな」

「大丈夫。僕の方でもう一回三笘直子に来てもらうように連絡してあるから」

 律と話をしていると、ドアのベルが鳴った。来訪者は、恐らく三笘直子だろう。

「こ、こんにちは。先日こちらに寄せていただいた三笘直子と申します。鯰尾薫さんで間違いないですよね」

「そうです。ただ、残念ながら僕は君の記憶を一部失っている。故に助手が取ったメモが頼りだ」

「そうですか……。それでも、鯰尾さんは健気けなげに生きているんですね」

「健気か。考えたことが無かったな。それはともかく、君から詳しい話を聞こうか」


 こうして、僕と律は三笘直子から詳しい事情を聞くことにした。

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