4.解明/独白

 かすかな物音に、スリープモードだった私の意識は覚醒した。眠るディイが立てた物音でも、潮騒の音でもなかった。それは、ドアが開錠される音だった。

 暗がりにまぎれた足音はふたつ。どちらも成人男性とおぼしき重さを持つ音だ。足音はどんどん近づいて、ついには部屋に侵入してきた。


「……っ」


 私は冷静であるよう自分に言い聞かせた。

 旅行客を狙った強盗だろうか。とりあえずディイを起こさなければ──

 寝台に横たえていた身体をそっと起こしたそのとき、


「勝手に入ってくるんじゃねえよ」


 はっきりと耳に届いたのは、ディイの声だった。

 ディイは掛布団を引き上げて、賊の銃の照準を狂わせた。銃声が弾ける。

 賊の背後に回り込んだディイは、賊のひとりに体当たりして、腰ベルトの背面から抜いたナイフを振りかぶった。白い光が爆発して、機械がショートする耳障りな音が立つ。機械心臓にナイフを突き立てられて、床に縫いとめられた賊のひとりが、火花を散らしながら血まみれの手で宙を掻く。


 ディイはもうひとりとの距離を詰め、銃を構えた賊の手を蹴り上げた。銃声が部屋を揺らし、天井に銃弾がめり込む。床に賊を押し倒したディイは、胸ぐらをつかまれ、もつれるように床を転げ──賊が肘に仕込んでいた隠し刀が、ディイの胸を貫く。


「ディイ!」


 私の悲鳴と同時に、バチ、と白い光があふれて、私の目を焼いた。

 ディイは外部に放出された電荷の光をまといながら、胸に差し込まれた刃物ごと賊の腕をつかんでいた。賊の身体を押さえつけ、ゴキリと腕の骨を破壊する。


 ディイは床に転がっていた拳銃を拾い上げ、賊の腹と足を打ち抜いた。光が弾ける。硝煙の匂いと、肉が焦げる臭いと、鉄錆に似た血の匂いが充満する。

 機械の身体を破壊された賊が、床に転がった。ディイが賊の被っていた暗視スコープを取り払う。短く刈り込まれた灰髪があらわになった。


 あの灰髪には見覚えがあった。中央区からここに向かう電動列車で、水煙草を吸っていた男だ。賊は唇をゆがめて、ひひっ、とわらった。蛙のような、生理的嫌悪を催す粘ついた笑いだ。

 ディイは銃口を賊の眉間にねじあてて、顔をしかめた。


「あぁ、くそ痛ってえ……こちとらまだほとんど生身なんだよ。あんたらみたいに痛覚を飛ばした廃人とは違うってのに、無茶させやがって」


 賊は眼球をせわしなく動かして、嗤いつづけた。

 スキットルに入ったアルコール。水煙草の甘い匂い。麻薬や薬物の類を恒常的に摂取している者特有の不気味な笑み──


「何か言い残すことは」


 ディイの言葉に、賊はこの上ない快楽を味わうかのように、うっとりと目を細めた。


「ああ、神よ……私は忌まわしい魔女の呪いから解き放たれ、やっとあなたのみもとへいける」


 銃声が立て続けに響く。何度も銃弾を撃ち込まれた賊の機械脳は、動きを止めて完全に沈黙した。ディイは屍になった賊から離れて、心臓を縫いとめられて蠢く、もうひとりの賊に銃弾を叩きこんだ。何度も。全身に。機械反応による痙攣すらなくなるまで。


 部屋は水を打ったように静かになった。私は寝台の上に座りこんだまま動けずにいた。ディイが振り向く。血がこびりついたモッズコートの向こう、破れた皮膚の下で、見慣れた機械パーツがせわしなく動き回っている。永久機関を有するディイの機械の心臓が、損傷を補うために働いている。


「……その身体」


 唇から渇いた声が落ちた。

 ディイはエンジニアブーツの靴底を鳴らして、私のもとに歩み寄った。


「お前が俺に与えた心臓だ」


 そんなことは知らない。


「俺が、ジフリンスの揺り籠の、被験者第一号だ」


 そんなことは記憶にない。


 ディイは寝台に手をついて乘り、私との距離を詰めた。手にした拳銃で額を小突かれる。眩暈に似た混乱に支配されていた私は、あっけなく寝台に倒れた。ディイは私の額に銃口をつけたまま、私に覆いかぶさった。


 あの賊の狙いは私だった。ディイが呼び水といっていたのは、セキリティが強固なラボから私を連れだすことによって、賊をあぶり出す意図のことだったのだろう。ジフリンスの遺言に、極力ラボを離れないようにとあったのも、私を破壊させないためだったに違いない。


 ディイが片手で私の頚椎を握った。首を固定されれば、銃弾を避けることもできない。


「……なあ、ジフリンス」


 ディイの声が降ってくる。私は眼だけで彼を見上げた。そこには灰色の海が広がっていた。迷子の子どものような、形容しがたい二対の瞳が、私をまっすぐに見つめている。

 音のない世界で、やさしい彼の声が響いた。


「死にたくないって、言ってくれ」




 ◇ ◇ ◇




 昔から夏の終わりが嫌いだった。あれだけ植物性プランクトンの死骸の匂いを放っていた海も、夏が終わると同時に、腐敗した匂いを消していく。海は変わらず微生物たちの墓場であり続けているというのに、生も死も、まるでなかったようにされるのが嫌だった。


 あの日も、そんな夏がせていくような午後だった。扉を開いた先にある病室には、生の匂いも死の匂いも存在しせず、ただ静けさだけがあった。漂白された部屋に届く日差しには、もう夏のような鮮烈さは残っていない。陽光が窓辺の枝葉に濾されて、清潔なシーツの上に、彼女のかさついた青白い肌の上に、穏やかな影を落としている。


「調子はどうだい」


 俺はわざとぞんざいに声をかけて、エンジニアブーツの靴底を鳴らしながら病室に入った。

 ベットで半身を起こし、窓の向こうの景色を眺めていたジフリンスが振り向く。この一年で長かったプラチナブロンドの艶はなくなって、今は短い白髪になっている。身体は痩せこけ、枯れ枝のように細くなった腕には、栄養剤と痛み止めの入った点滴が繋がれていた。


「悪くないよ、ディイ」


 それでもジフリンスは俺を見ると、いつも穏やかに微笑んだ。


 彼女の全身は悪性腫瘍に侵されていた。比較的早期に腫瘍を発見していたにもかかわらず、ジフリンスは治療や手術といった処置を拒み、また悪性腫瘍のある臓器を、機械に置き換えることもしなかった。

 ジフリンスの揺り籠を生んだ張本人が、自分の技術を自らに施すことを拒否したのだ。


 俺はベットサイドの丸椅子に座り、視線を落とした。前の面会のときより痩せこけたジフリンスを目の前にして、いよいよその時が近いことを思い知らされる。

 季節の終わり。彼女の匂いが消える日も近いのだろう。


「……どうしても逝くのか」


 ただの見舞いに来たはずなのに、俺の口は余計なことを言いはじめた。

 数十年前なら、尋ねるという選択肢すらなかった問いだ。けれど今は、永遠という時を得る選択肢が、手を伸ばせばすぐそこにある。

 俺の問いかけに、ジフリンスはうなずいた。


「もう決めたことだ」


 そのきっぱりとした、達観した物言いを聞いて、ふいに俺の機械仕掛けの心臓がきしむ。


「お前は卑怯だ」


「分かっているよ」


 俺が絞り出した声とは裏腹に、ジフリンスの発音はどこまでも澄んでいる。


「けれど、私はもう疲れたんだ。ジフリンス・ヴェルナーは、魔女は逃げたのだと、一部の人々は今以上に私を貶めるだろうけど、もうそれで構わない」


 ジフリンスの揺り籠という技術は、人類の長年の夢だった。不老不死の薬、あるいは賢者の石。彼女が生み出したのはそういうたぐいのわざだ。人々はジフリンスに惜しみない賛辞を贈り、死の淵に立っていた者たちはむせび泣きながら彼女に感謝し、彼女を神のように崇めた。

 飼い犬を亡くした悲しみがジフリンスをここまで走らせて、俺の不良品だった心臓がジフリンスに覚悟を決めさせた。


 彼女の技術に非はなかった。問題があったのは、技術を施された側だ。

 終わりなき生は、一部の技術を施された者たちの精神を、おだやかにむしばんでいった。


 もしかしたら神という存在は、あらかじめ生き続けることに耐えられないよう、生物を創造していたのかもしれない。太陽に近づきすぎたイカロスの羽根の蝋を溶かしたように、神の業に近づきすぎたときの罰を、あらかじめ植えつけていたのかもしれない。


 肉体を機械に替えた者が、たとえ永遠の生に終止符を打ちたいと願っても、俺たちの神は自死をかたく禁じている。大衆のほとんどがジフリンスを褒め称えるなか、そういった生に飽いてなお死ぬこともできない者たちは、いつしかジフリンスを魔女と呼ぶようになり、魔女に呪いをかけられたのだとわめきはじめた。彼女は時にはそういった者たちに、命を狙われる事もあった。


 ──何がいけなかったのだろう。


 ラボで一人、ジフリンスがぽつりとこぼした独り言がよみがえる。


「ディイ」


 すっかり病魔に蝕まれた現実のジフリンスが、俺の名を呼んだ。


「お前には長年、随分とわがままを言ったな。入手困難な希少パーツだの、廃番になった電気工具だの、私はお前にずっと無理難題な注文を押しつけてきた」


「今さらなんだよ、気持ちわりぃな」


「でもお前は悪態をつきながら、私の求める物を必ず持ってきてくれた」


「ないと困るんだろ? それを用立てるのが俺の仕事だ」


 違いない、とジフリンスは笑った。吐息のようにかさついた、小さな声で。

 ジフリンスが居住まいを正し、俺を見上げる。


「……これが最後だ。どうかもう一つ、私のわがままを聞いてくれないか」


「今さら? いったい何を頼むってんだ」


「もう一人のジフリンスのことだ」


 彼女の言葉に、俺は息を飲んだ。

 昔ジフリンスのラボで見た人形を思い出す。若い頃のジフリンスを模した、機械パーツの集合体。かたくまぶたを閉じた、機械仕掛けの眠れる少女。


「私が息を引き取ると同時に目覚めるようプログラミングしてある。あの子は私だから、時々でいい、どうか見守ってやってくれないか」


「……あれはお前じゃない。オートマタだ」


「あの子は私だよ」


 聞き分けのない幼子に言い含めるように、ジフリンスは繰り返した。


「私の記憶を移してある。あの子は間違いなくジフリンス・ヴェルナーだ。ジフリンスの揺り籠という技術の番人にして、調律者という仕事を続けるために存在する、もうひとりの私だ」


 俺は黙りこくった。どうさとされたとしても、あのオートマタがジフリンスだと納得できなかった。俺の幼馴染で、長年の相棒で、頑固で、仕事以外のことはてんで駄目で、夢に向かって一直線に駆け抜けたジフリンス・ヴェルナーは、今俺の目の前で病魔に命を食い散らかされている、こいつだ。あの眠れる機械じゃない。


「納得できないなら、それでいい」


 ジフリンスは、雨上がりの澄んだ空のような碧眼を細めて笑った。


 そこでこの話は終わった。体力のないジフリンスとの面会時間は限られていて、俺は早々に病室をあとにした。俺はまた来ると言い残して、ジフリンスは静かにうなずいた。

 それが最後だった。〝また〟なんて時は訪れなかった。その日の真夜中に病状が急変したジフリンスは、あっけなくこの世から去ってしまった。


 彼女の死後、俺はあちこちを放浪した。海の匂いのする場所から遠ざかりたくて、砂漠や亜熱帯地域や、極寒の地へと足を運んだ。もう二度とあの国に戻るつもりはなかった。それなのに、毎夜目を閉じると、ジフリンスの最後の微笑がまぶたの裏に浮かんでくる。


「くそったれが」


 俺はそのたびに舌打ちして悪態をつき、毛布を引き上げてむりやり眠りについた。

 彼女は最後に、納得できないならそれでいいと言った。ジフリンスは知っていたんだ。たとえ納得できない、意に添わないことだとしても、俺が彼女の望みを叶えなかったことなんて、一度たりともなかったことを。


 ひどい女だ。


 彼女の死後からおおよそ三年後、俺は結局ジフリンスのラボを訪れていた。

 慣れ親しんだラボの扉を抜けると、あいつがいた。若いジフリンスに瓜二つの、ジフリンスの記憶を持ったオートマタが。

 見守ってくれと、ジフリンスは最後に俺に言い残した。なら、たまに訪ねて様子を見るだけでいいだろう。俺は昔のように機械パーツの商人として、ジフリンスのラボに出入りした。


 オートマタは生前のジフリンスの話を聞きたがった。俺はわれるままに彼女の話をした。 

 世間話を何度かするうちに、オートマタにはいくつかの記憶の欠落があることが分かった。


 ジフリンスとの最後の面会の日、彼女はオートマタから記憶のいくつかを消去していたことを俺に言わなかった。自ら望んで病床に就いたジフリンスのように、生をいとう可能性のある記憶を潰しておきたかったのだろう。彼女は全部消していた。マイロを飼っていた記憶も、俺の心臓を機械と取り換えた記憶も。それならなおのこと、このオートマタがジフリンス・ヴェルナーだと、どうして認められるだろう?


 ジフリンスがどうして自分の悪性腫瘍を放ったままにしたのか、どうして自分の肉体だけは機械と挿げ替えなかったのかと、俺はオートマタに訊いた。オートマタはその問いに答えられず、ただ白衣の上から自分の腕を抱いて困惑していた。それは敵意を感じる他人の発言から、自分の身を護ろうとするときの、ジフリンスの癖だった。


 オートマタは一般的な機械技師が愛用するエルス社製の潤滑油ではなく、オーランド社製のものを好んだ。オーランド社製の潤滑油は透明度が高くて、適量を歯車に挿すと、本当になめらかに油が伸びて、いきいきと動くんだと、オートマタは嬉しそうに拡大鏡を覗きこんでいた。まるで若い頃のジフリンスのように。


 ──違う。こいつはジフリンス・ヴェルナーじゃない。そのことを確かめるように、俺はジフリンスのラボに通った。オートマタとジフリンスを同一視した過激派が、ラボの様子を探っていることに気づいて、俺はオートマタを旅行に誘った。あえて襲撃しやすいような場を作って返り討ちにするためだ。


 旅行でオートマタが着ていた薄水色のシャツワンピース。あれはジフリンスが少女時代に、精一杯のおしゃれのために選んだ一着だった。彼女は夢に関すること以外は本当に無頓着だったけれど、それでも一人の女性だった。


 当時の研究室の憧れだった先輩に映画に誘われた彼女は、俺に事情を話して、洋服選びを手伝ってくれないかと頼んできた。二人で洋服店をはしごして、男性から見て魅力的な装いについて念入りなリサーチをした。一日かけて彼女は普段は着ないようなワンピースを選び、薄紙と紙箱と紙袋にくるまれたそれを、大事そうに両手に抱えて持ち帰った。


 結局、彼女の瞳の色と揃いのワンピースは、二度しか日の眼を見なかった。一度目は先輩とのデートで、二度目は失恋したジフリンスを誘って、盛り場に繰り出した時だ。慣れない酒で顔を赤くしたジフリンスは、酔った勢いで俺と夜通しダンスをした。彼女はでたらめなステップを踏んで俺を振り回しながら、笑いながら泣いていた。長い時を経て、三度目の機会をもうけた彼女は、そのことを覚えているだろうか。


 どちらでもいい。覚えていても、覚えていなくても。俺は持っていたマフラーで薄水色を白く塗りつぶした。俺は彼女と、時代遅れの電動列車に乗って、故郷に帰って、飼い犬の墓参りに動物墓地へ行って、冬の海を一緒に歩いた。


 魔が差した。俺は彼女に馬鹿なことを聞いた。

 彼女は俺の問いに、答えなんてない、と答えた。


 答えなんてないのなら、俺はずっと迷ったままなのだろうか。いくらオートマタをジフリンスではないと否定しても、ふいに見える面影に心は搔き乱されてしまう。


 この気持ちに決着をつけたかった。明確な答えが欲しかった。

 たとえ、それで何もかもが終わってしまうとしても。

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