3.不出来な晩餐


 冬の夜の訪れは早い。日暮れ前に海をあとにした私たちは、そこから一番近い宿におもむいて、宿泊手続きをした。さすがに私はジフリンス・ヴェルナーを名乗るわけにもいかず、記帳はディイが機転を利かせて、偽名を書いてくれた。


「最近はめっきり客が減っちまってね。掃除が行き届いてるのは、こないだ使われたツインルームくらいだけど、そこでいいかい」


 年配の宿主の男が、ディイに尋ねる。


「ああ、構わないよ」


 ディイは万年筆を走らせながら返事をした。


 私たちにあてがわれた部屋は、たしかに掃除こそ行き届いているものの、古くて暗い部屋だった。歩くたびに木の床がギシギシと軋む。剥き出しの電球をつけると、二台の寝台と、小さな書き物机だけが備えつけられた、粗末な室内の光景が浮かび上がった。


 ディイは私のトランクケースと自分のバックパックを床に置いて、部屋のカーテンを払った。岬にあるこの宿は景観だけは素晴らしく、日没後の青い薄明りを残した空と、暗く波打つ海が臨めた。硝子越しに潮騒が聞こえる。


「泊まるところは確保したし、次は腹ごしらえか」


 そういえばディイは、電動列車のなかで缶コーヒーを飲んだきり、何も口にしていなかったと気づく。私が食事の必要がないものだから、今の今まで気にも留めなかった。


「ところでお前、食事は摂れるのか?」


 ディイに話を振られて、私はうなずいた。


「ああ。動力源は電気だが、食物を消化して動力に変換する器官も備わっている」


 生身の身体から徐々に機械に置き換えていった者ならともかく、私は一から機械パーツで組み立てられたオートマタだ。ゆえに私は休息も睡眠も食事も必要としない。私の身体は、不効率な時間を省くつくりになっている。

 けれどなぜか、ジフリンスは私に、あたかも人間のような器官をつけた。それがなぜなのか、考えたこともなかったけれど……。

 私の返答に、ディイは目を細めた。


「誰かと一緒に食事ができるようにって、あいつなりの配慮かね」


「なるほど。来客と食事を共にしなければならないとき、違和感なく、より人間らしく振舞うことで、相手に不快感を与えないための配慮か。なにしろ消化器官を持たないオートマタが食べ物を口にしたら、すぐに異物として体幹の最下部から排出されるからな……。あれは確かに、見ていて気持ちがいいものではない」


 真面目に推測したのに、ディイは盛大に吹き出した。

 腹を抱えて爆笑し、しまいには呼吸すらままならないような声を漏らすものだから、私はなんだかえらく見当違いなことを言った気がして、いたたまれなくなってくる。


「笑うな!」


 腹立ちまぎれに、編み上げ靴のかかとでディイの足の甲を踏みつける。

 彼は「痛ぇ」と呻きながら、それでもひぃひぃ笑い続けた。

 いくらなんでも笑いすぎだ。なんて失礼な男だ。

 羞恥心に耐えているうちに、やっと笑いが収まったのか、ディイが目じりの涙を指でぬぐって、呼吸を整える。


「いやあ、悪ぃ。いかにもあいつが考えそうな、合理的な推測が飛び出たもんだから、面白くてさ。馬鹿にした訳じゃなくてな?」


「あそこまで笑われたら、馬鹿にされたと考えるのが普通だろうが」


 私はため息をつき、腕を組んで「で?」と彼に促した。


「ここまで笑ったんだ。お前は私とは違う考えを持っているということだろう? その推測を聞こうじゃないか」


 顔を上げて彼を睨む。

 するとディイは急に居心地悪そうに、私から目を逸らした。


「……改めて言われると、俺の考えの方こそ見当違いじゃないかって気がしてくるな……。なにせジフリンス・ヴェルナーの思考だ。お前の推測のが正しいんじゃないか? もういいよ、お前のが正解で」


「良くない。いいから言え。お前の考えが聞きたいんだ」


「……笑うなよ?」


 人の話を笑っておいて、自分の話を笑うなとは、なかなか厚かましい男だ。

 けれどここで断ったら、彼は意見を飲んでしまうだろう。私は黙ってうなずいた。

 ディイは後頭部をがしがしと掻いて、嫌々といった風に口を開く。


「……親しい人と摂る食事は、精神の充足に繋がってる。そういうことを、あいつは大切にしたかったんじゃないかって……」


 私は数度まばたきをした。


「……つまりそれは、ジフリンスが、私の精神のケアに配慮したということか?」


「まあ、お前も、お前と一緒に食事するやつも。両方じゃねえの。誰かと食う飯は美味いって、よく言うだろ」


 ──なんとも優しくて甘い口当たりの、情緒的な思考だ。ジフリンスはそのように考えて、私に人間の臓器と同じ器官を取りつけたのだろうか?

 考え込む私に、ディイは半ば自棄やけになって「やっぱりなしだ。忘れろ」と口早に言った。私は首を横に振って、それを拒否する。


「いや、私は目覚めてから今まで、消化器官を使って食事をしたことがないから、実感がないだけかもしれない。いつも食事をしていたジフリンスが、そう考えた可能性は十二分にある。──どちらにせよ、一度食事とやらを体験してみないと分からないな」


 試してみたい、と口にすると、ディイは渋い物を口にしたように顔をしかめた。


「今か?」


「今だ」


 ここで、先ほどのディイの推測を言う言わないよろしく、押し問答を繰り返したのだけれど、いいかげんそんなやりとりは聞き飽きているだろうから、一切合切を割愛しておく。


 結果的にはディイが折れて、私たちは食事の目途を立てるために、年配の宿主を訪ねて再びフロントへおもむいた。しかし宿主いわく、この宿は素泊まり専用で、しかも周辺にあった飲食店も軒並み潰れてしまったとのことだった。かろうじて残っている現地民向けの食堂も、十七時に閉まってしまったらしい。


 私たちは最寄りの食料雑貨店を案内され、そこへ行き、蛍光灯の明かりも切れかけたその店で、作り置きの惣菜──ハンバーガーふたつとナゲット一袋、ペットボトルの炭酸水二本──を購入して、宿に戻った。


「こんなのが初めての食事で本当にいいのかよ」


 紙袋をガサガサいわせながら、部屋の書き物机に買ってきた物を並べつつ、ディイが苦々しい口調でつぶやく。


 私は机の前にあった椅子に座り、薄紙に包まれたハンバーガーを手に取った。手に収まったそれは、圧縮されたかのように硬くて重くて、おまけに冷たかった。

 薄紙を剥くと、かちこちのハンバーガーが姿を現す。ソースが接着剤代わりになったバンズの上部分をすこし押し上げると、薄っぺらいパテとチーズが申し訳程度に挟んであるのが見えた。


「不味かったら、無理せず残せよ」


 そう言い残して、バックパックの上に腰を下ろしたディイが、ハンバーガーにかぶりついた。ディイの大きな手に握られていると、ハンバーガーがとても小さく見える。

 私も彼にならって、ハンバーガーに口をつけた。


 ひとくち含んですぐに、甘辛いソースの味が舌に広がる。ソースの味が過ぎ去ると、粘土のようなチーズの味と、冷えて縮こまった挽き肉の味、質の悪い脂の味が口のなかで混ざり合った。咀嚼するうちに、ぼそぼそしたバンズに口内の水分が奪われる。渇きを補うために炭酸水を飲む。気泡が喉を刺激する。食道が拡張されるような圧迫感を飲み下して、やっと自由になった口で、私は率直な感想を口にした。


「不味い」


「だから言ったじゃねえか」


 そう返して、ディイは黙々とハンバーガーを食べ続けた。彼の口の動きは、なんとなく書類を切断して破砕する電動シュレッダーの動きに似ている。


 私も二口目にとりかかる。どうやったらこんなに不味くできるのかと思うくらい、このハンバーガーは不味い。なんとか飲み下して、でも三口目を食べたくなくて、口休めにナゲットに手をつける。すると今度は、油の回った衣と、紙のように味気なくパサパサした鶏肉の味が広がった。慌てて炭酸水を口にする。物を食べるたびに炭酸水が相対的に美味しく感じた。私の隣では、相も変わらずディイが無表情で口を動かし続けている。


「……ふ」


 私は笑みを漏らした。

 どうしてこんな最果ての街の、安宿の部屋で二人並んで、不味い惣菜を真面目に食べているのだろう。あまりにも不幸だと笑うしかないという話があるが、それと同じなのか、この状況があまりにも間抜けで可笑しくなってきた。


 残りのバーガーを口に放り込んで、包み紙をくしゃくしゃと丸めていたディイも、口の端から笑い声を漏らす。それを契機に、私たちは含み笑いをこぼしあった。


「精神の充実どころじゃないねぇ」


「まったく同感だ。不味い食事は不快感しか生まないと、よく分かった」


 そんな文句を垂れながら、惣菜をすべて腹におさめたのだから、私とディイも大概だ。


 五感は記憶と結びついているという。この不味い食事が、私の脳のシナプス代わりの回路に、昔の記憶を呼び戻した。ついさきほど起こったことのように、記録映像が脳内に再生される。


「あのときもそうだったな」


「あのときって?」


 炭酸水で口内に残った味を洗い流しながら、ディイが私の言葉を反芻はんすうする。


「ほら、ハイスクールの食堂でバーガーを食べたときのことだよ。先輩方からここのは不味いと、さんざん忠告されていたのに、好奇心に負けたお前と私は、揃ってバーガーを注文しただろう。結局今みたいに不服な顔をしながら、不味い食べ物を処理するはめになった。覚えているか?」


 私が声を弾ませたのに、ディイは返事をしなかった。

 彼は無言のまま、灰色の眼を私に向けた。

 急に部屋の温度が下がったような気がする。私は声を潜めて彼に尋ねた。


「記憶違いか」


「……いや」


 彼はかすれた声でそう言って、頬を緩めて笑顔を作る。


「懐かしいな。今の今まで忘れてた」


 彼は穏やかに、にこやかに喋っているのに、私に妙な違和感を感じさせた。けれど何がおかしいのかは、とても言語化できそうになかった。しいて言うなら、彼の眼は私を見ているのに見ていないような、まぼろしを追うような不確かな色をしていた。

 居心地の悪さから、私はこの話題をそこで打ち切った。


 空になったペットボトルと包み紙をまとめて屑籠に捨ててしまうと、他にやることはなくなってしまう。私は窓辺に立って、すっかり闇に沈んだ風景を眺めた。


「……生前のジフリンスとも、こうして休暇には一緒に旅をしていたのか?」


 窓硝子に手を置いたまま、何気なくディイに尋ねる。


「いいや」


 私は思わず振り向いて彼を見る。ディイはいつも通りの視線を私に寄越し、皮肉な笑みを浮かべていた。


「あのジフリンス・ヴェルナーだぞ。おいそれと一緒に旅行なんて行けるわけねえだろ。あいつも仕事してれば満足ってやつだったし、俺も忙しかったしな」


「じゃあ、なんでいまさら」


「この年になると、取りこぼしてきたものが色々見えるもんでね。あとはまあ……呼び水ってやつかね」


「呼び水?」


 鸚鵡返しをした私に、ディイは「たぶん、そのうち分かるさ」と言って、ポケットをまさぐって、しわくちゃになった煙草を取り出した。


「ここは禁煙だ」


「世知辛いねえ、食後の一服は美味いんだけど」


「話をはぐらかすな。呼び水とは何のことだ」


「分からないことは解明したくなるのは、研究者のさがってやつかね、ジフリンス。でもお前は、まだ裏付けがとれていないことを強引に結論づけて答えることが、いかに愚かか分かるだろ? そういうたぐいのことなんだよ、これは」


「お前の解釈でいい。裏付けが取れていなくても、私がぜんぶ解明してやる。話せ」


「なんで上から目線なんだよ。……ったく、本当にお前ってやつは」


 ディイが私の頭をくしゃくしゃと撫でた。


「あいつが生きてたころを思い出すよ。さっきの食事だってそうだ。俺たちはいつもこんな感じだった。ろくでもない結末に笑い転げて、しょっちゅう言い合いになって、それでもあいつと一緒にいると、打てば響くような応酬が楽しくてさ」


「……だから、話をはぐらかすな」


 大きな手が頭に乗ることを許したまま、私はぼそぼそと文句を言った。言葉に勢いがなくなっているのが自分でも分かった。


「はぐらかしてないさ」


 ディイが笑う。「すぐに分かる」と彼は言った。


 今振り返ると、このときの彼は、自分の仮説がくつがえるのを心のどこかで期待していたのではないかと思う。しかしその期待は裏切られ、私は彼の言葉の意味を知ってしまった。

 私は今後、この夜のやりとりや、灰色の海で並んで歩いたことを、擦り切れるほど何度も思い出すことになる。ディイと笑って話したのは、これが最後だったから。

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