2.旅行/帰郷


「どこか旅行にでもいくか」


 ディイがそんなことを言ったのは、私と彼が出会って三ヶ月目のことだった。機械パーツを持ってきたあとの、いつもの雑談だと思った私は、作業台の拡大鏡を覗きこんだまま「そうか。気をつけてな」とつぶやいて、欠陥品の調律を続けた。


「……いや、俺だけの話じゃなくて」


 苦いディイの声に、私は顔を上げた。彼は居心地悪そうに顎をさすっている。


「お前、ずっとラボに籠りきりじゃねえか」


「これが私の仕事だからな。極力ここを離れないようにと、ジフリンスの遺言にもあった」


「最後にラボを出たのはいつだ?」


 彼の問いに、私は宙を見ながら記憶を遡った。こういう時、人間と違って過去のできごとを正確に思い出せるのは便利だと思う。


「二年前」


 私は端的に答えた。いつものようにオンラインで欠陥品の調律を依頼されたものの、輸送されるはずだった依頼品が、あやまって箱の中で起動してしまい、運送会社の社員が「お届け品の箱が動いているんですが」と半泣きで連絡してきたのが、今からちょうど二年前だった。私はラボから七百メートル離れている営業所へ赴いて、その場で社員と共に荷をあらため、問題がないことを確認して、そのまま暴れる箱をラボまで運んでもらった。あれが最後の外出だ。

 ディイは私の返答に呆れた顔を隠そうともしなかった。


「……行くぞ、旅行。世間はもうすぐ降誕祭だ。お前もたまには骨休めをした方がいいだろ」


「別にその必要性は感じないが」


「うるせえ、いいから行くんだよ。引きこもりを相手にしてたら、こっちまで辛気くさくなる」


 ディイの暴言に眉根を寄せると「どこか行きたいところは」とたたみかけるように訊かれた。引きこもりと呼ばれるのは業腹だが、これは彼なりの気遣いだろうから「辛気くさいのはどっちだ、いつももっさりした格好をして」という悪口は吐かずに飲みこんだ。


 ここではないどこかに行くということ。多くの人は気晴らしのために、目新しい場所に身を置きに行くのだろう。私はそういった行為に興味も関心もなかった。それは私が休息や睡眠を必要としないオートマタだからではなく、生来のジフリンスの性格に起因していると思われる。

 生前のジフリンスも、ディイに強制的に旅行に連れていかれたのだろうか。


 ──記憶はところどころ欠けている。特に、ディイと家族に関する記憶が。

 ディイが幼なじみであることや、父母という家族がいたこと、そういった記憶の外殻は私のなかにもあった。ただ、その中身である思い出の多くが抜け落ちている。それはちょうど、隣人の顔は覚えていても、通りすがりに交わしたあいさつの内容が、数年後には記憶に残っていないような、人間の記憶の選別からこぼれ落ちるものに似ていた。彼らはジフリンスにとって大切な人であったにも関わらず。

 どうしてジフリンスは私という個体に、思い出を残さなかったのだろう。


「……お前が前に話していた、犬の眠る墓地に行ってみたい」


 唇を動かすと、ディイがわずかに瞠目した。灰色の眼が、長い前髪のあいだであらわになる。

 私は言葉を続けた。


「ジフリンスの故郷へ」




 ◇ ◇ ◇




 ジフリンスの故郷は、この国のなかでも北の果てにあった。ラボのある中央区とはまるで違う寂れた街らしく、浮上式鉄道すら通っておらず、そこに行くには一日一便しかない電動列車を乗り継ぐ必要があった。


 私とディイは中央区の駅で待ち合わせをした。塗装が剥げて錆が目立つ列車の前で、革張りのトランクケースを下げて彼を待つ。ややあって、人の往来のなかに、頭ひとつ抜き出たディイのすがたを見つけた。モッズコートの上から黒いバックパックを背負って、あくびを噛み殺しながら、のんびりとした足取りでこちらにやってくる。

 彼は私を見つけると、唇をひん曲げて、つかつかと距離を詰めてきた。


「お前、その恰好」


「うん? 何だ」


 今、私が身に着けているのは、ジフリンスのクローゼットの底に眠っていた、薄水色のシャツワンピースだ。丈も丁度良かったので拝借した。染みもほつれもなかったし、着用には何の問題もないはずだ。

 ディイは目を眇めて私を見る。


「そんな薄物一枚で、寒いだろ……って、そうか、お前は寒くないのか……」


 どうやら私は季節感を失念していたらしい。よくよく見ると、行き交う人々は皆厚手の上着を羽織っている。私は寒さで凍えることも、身体能力や思考が鈍ることはないけれど、これでは悪目立ちしてしまうかもしれない。

 今からでも上着を用立てるべきだろうかと考えていると、ふわりと両肩にやわらかな質感が被さった。


「これ羽織ってろ。見てるこっちが寒々しい」


 ディイが身に着けていた白いマフラーを外して、私にかけてくれる。

 マフラーからは、かすかに煙草の匂いがした。


「……ありがとう」


「お前、オートマタなのに変なところで抜けてるんだな」


 礼を言ったのに、ディイは小憎らしいことを口走って、私の手からトランクケースをもぎ取り、さっさと列車のタラップを踏んでいった。


「な」


 唇から意味のない声が転げ落ちる。私は肩をいからせ、編み上靴のかかとでタラップの薄い鉄板を踏み抜くようにして、彼の後を追った。


「オートマタであることは関係ない! ジフリンスだからだ!」


「ああ、そういえばそうだな。あいつは研究以外は、てんでだめだったよ」


 彼はボックス席の前で立ち止まり、私の頭をくしゃくしゃと雑に撫でた。何かをごまかすときの彼の癖。適当になだめすかされている。業腹だ。


 間もなく列車は運行を開始した。一両編成の車両には、私とディイ以外に三組の乗客がいた。皆暗い色のコートを着込み、背をまるめて俯いている。酒でも入っているのか、ときおりスキットルをあおる者もいた。水煙草を吸う者もいて、私達の席にまであまい匂いが漂ってくる。


 向かいの席に座ったディイも、持ち込んだ缶コーヒーを傾けながら、窓の外の景色を眺めていた。私もそれにならって、四角く切り取られた動く風景を眺めた。


 鉄道レールの継ぎ目を走るときの、単調な音を連続して響かせながら、列車は北上していく。大きな鉄の箱がギシギシと揺らぐさまは、まるで揺り籠のようだった。




 ◇ ◇ ◇



 

 途中で一度列車を乗り換え、私たちは正午頃にジフリンスの故郷に着いた。古びた駅舎を出ると、曇り空の下には、時代に取り残された廃墟のような街が広がっていた。街を見渡してすぐに、この街のランドマークが駅舎であることは理解できたが、それにしてもほとんど人の気配がない。

 強風にはためくマフラーを押さえながら、すうと深呼吸をしてみる。


「海が近いのに、あまり潮の香りがしないものだな」


「冬は穏やかなもんだよ。あれは植物性プランクトンの死骸の匂いだからな。腐敗しやすい夏は臭うぞ」


 慣れた足取りで駅から離れていくディイのあとを、私は追った。近くの傾きかけた小売店で花を買い求め、乗合自動車に乗る。動物墓地は駅からそう離れていない場所にあって、私たちは陽の高いうちに、ジフリンスの犬の墓に花をたむけることができた。


 墓石には〝マイロ〟と刻まれていた。スラブ語で、親愛なる、の意を持つ名前。きっとこの犬は、ジフリンスにとても愛されていたのだろう。その証拠に、マイロの墓石の上には枯れた花束が置かれていた。生前のジフリンスが、誰かに定期的に参拝するように頼んでいるに違いない。


「これからどうする?」


 乗合自動車を待ちながら、ディイはのんびりとした口調で私に尋ねた。陽はまだ高い。


「ジフリンスの生家は」


「両親が亡くなった数年後に、ジフリンスが処分した。俺の家も同じだよ。たぶんどっちも更地のままだけど、見に行くか」


 私は首を横に振った。

 ジフリンスとジフリンスの両親は中央区に新居を構え、そのままそこに骨を埋めた。生家もないのなら、飼っていた犬の墓地くらいしか、故郷と彼女を繋ぐ物はなくなったということだ。


「……海でも見に行くかあ」


 伸びをしながら、どこかおどけた口調でディイが言った。私が向きなおると、彼はいつものようにへらりと笑う。


「ほんとに海以外何もないからな、このへん」


 そうして私たちは、乗合自動車に乗って海に向かった。砂浜が見え隠れしはじめたところで適当に降車ボタンを押して、乗合自動車を降りる。降りると同時に海鳴りがした。強く吹く風に、小粒の雪花が混じっている。

 枯れ草の茂る更地と、シャッターの閉まった古い店舗を横目に見ながら道を歩き続けると、防潮堤のあいだに下り階段が見えた。私たちは階段を降りて、波打ち際に近づいた。


 はじめて見る海は、まるで癇癪かんしゃくを起こしているかのように見えた。荒れた波が押し寄せて、砂浜に叩きつけられて砕けていく。上がった飛沫が引く間もなく、また次の波がせり上がる。冷たく濁った灰色のうねりだ。「今日は海がしけてるなあ」とディイは言った。彼の栗色の髪は、風になぶられて乱れきっていた。


「風に攫われるなよ」


 ディイはトランクケースを持っていない方の手を、私に差し出した。モッズコートの上に散った雪は塩のように粒を残しているのに、彼の手の上に乗った雪片は、たちまち透明になって溶けていく。生きているものの体温によって。

 私は黙ってディイの手を握った。かさついた手のひらは、乾いていて暖かかった。


 さく、さく、と音を立てて、二人並んで湿った砂浜を歩く。激しい波音も、聞いているうちに耳に心地よくなってくる。列車の音や振動と同じように、1/fのゆらぎを持つ音。この星の生命は海から始まったというのが定説だから、今は厳めしい顔を見せるこの海も、あらゆるものを揺籃してきた母であり、平常の波音はやさしい子守歌なのかもしれない。


「海を見てて思い出したんだけどさ」


 おもむろにディイが口火を切った。雪まじりの風で冷えたからか、彼の乾いた唇の血の気は薄かった。


「テセウスの船、って逸話があるだろ」


 私は風に散らばるプラチナブロンドを手で押さえつけて、うなずいた。


 ギリシャ神話で、テセウスという英雄王が、アテネの若者たちと共にクレタ島から船で帰還したときの話だ。船には三十本の櫂があり、朽ちた木材は徐々に新しいものに置き換えられていった。これを受けて、哲学者らは議論を繰り広げた。その船はもはや前と同じ船ではないと言う者と、同じ船だと主張する者がいたのだ。この議論が発展して、テセウスの船とは、物体を構成するパーツがすべて置き換えられたとき、過去の物体と現在の物体は同じだと言えるのかどうか、という同一性の問題を指すものになった。


「お前はどうだ。パーツが置き換えられたものは、どこまで前と同じものだと思う」


 ディイは前を見据えたまま、私に訊いた。彼が口を動かすたびにこぼれる息は白かった。


 ──どうして私に、そんなことを聞くのだろう。


 私はディイから視線を外して、足もとに視線を落とした。


 自然と歩みが止まった。彼もつられて立ち止まる。私の編み上げ靴のつまさきに、濡れた砂がまとわりついている。彼は私の手を離し、コートをまさぐって、煙草に火を点けた。ライターの回転式のヤスリを擦るときの、ジッという鈍い音が立つ。私は顔を上げた。彼の吐いた煙草の煙が、海の情景にたなびいている。乾いた朽葉が燃える匂いがした。


「……きっとこの問題には、どちらが正解で、どちらが間違っているという、単一の答えはないんだと思う」


 長い沈黙のあとで、私は口をひらいた。


「前のものと同じかという判断は、結局それを認識している人物の個々の意識にゆだねられている。その人物にとって重要だと思う箇所なら、たとえ一部分が入れ替わっただけでも、別の個体だと思うこともあるだろう。その一方で、すべてが入れ替わってしまっても、それに宿る精神性や、それを敬愛する想いから、同じ個体だとする主張があるのも当然だ」


 目の前に広がる、灰色の海。灰色の空。それを並んで見ている、ディイと私。


 本来、この世界に色は存在しない。ものを見て、その光の反射が網膜にある視細胞によって電気信号に変換されて、視神経を通じて脳に色として入力されているにすぎない。光の屈折率の違いによって、人が認識する色は異なる。いわば脳が世界に色を塗っているのだ。


 だとしたら、ディイと私が見ている色が同じであると、どうして言えるだろう。

 灰色という共通の言語が、本当は違う認識の色を指している可能性を、どうして否定できるだろう。


 それでも、たとえ違うものが見えていたとしても、同じ風景を見て、彼と言葉を交わすことはできる。


「──だから、テセウスの船の論理に答えなんてないよ。それが私の答えだ」


 私はディイの灰色の瞳を見て言った。彼の瞳は、今の海の色とよく似ていた。


 ディイは黙って煙草を吸った。寄せては返す波音が、二人のあいだに横たわる。


「……冷えてきたな。そろそろ引き上げるか」


 彼はぽつりとそう言って、携帯灰皿で煙草をもみ消し、踵を返した。


「ジフリンスはこの問いに、なんて答えたんだ」


 私はディイの背に言葉を投げる。


「さあな」


 彼は空を仰いだ。


「一度、聞いてみればよかったよ。あいつが生きているあいだに」

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