テセウスの船を拒むなら

オノイチカ

1.彼女と彼に関するいくつかのこと


 世界的権威を持つ天才機械技師、ジフリンス・ヴェルナーについて語れと言ったとき、彼が口にしたのは、世に著しい影響を与えた研究の成果でも、その素晴らしい功績でもなく、幼い頃、彼女が泣き虫だったという思い出だった。


「あいつが五つの時に、あいつが飼ってた犬が死んで」


 潤滑油やパーツといった商品を運び終えたディイが、汚れたつなぎのポケットから、くたびれた煙草を取り出しながらつぶやく。

 塵のひとつの混入も許されないラボでなんてことを、と私は肩をいからせ、すかさず「ここは禁煙だ」とぴしゃりと言った。ディイは「世知辛いねえ」と苦笑しながら、しわしわの紙箱に煙草を戻した。


 艶のない髪を無造作にひとつにまとめて、無精髭を生やしたディイ。彼の肉体は枯れはじめていて、最盛期をとうに過ぎている。


「その犬の魂は肉体を離れて、神のみもとに召されたんだって、クリスチャンだった彼女の両親は、必死に彼女を説き伏せた。でも、ジフリンスはひたすら首を横に振って、犬から離れようとしなかった。腐敗する前に土葬するべきだとあいつの両親は主張して、ジフリンスはむりやり愛犬から引き剥がされた。犬の亡骸は動物墓地に埋葬されて、あいつの手の届かないところに行っちまった。そのとき、ジフリンスは泣きながら俺に言ったんだよ。もうこんなのはたくさんだ、大切なものを亡くす悲しみに、きっと私が終止符を打ってみせる、って……」


「それがジフリンスが機械技師を目指した動機か」


「俺はあのとき、あいつが本当にそれをやってのけるなんて、思ってもみなかったがね」


 ジフリンスは劣化した部位を機械で補うすべをつくり出した。肝臓や膵臓、消化器や心臓といった臓器はもちろん、骨や肉、脳といった繊細なパーツまで、その生き物のものと寸分違わず造り、肉体になじませる機械技術を産んだ。それだけでなく、生き物の記憶を取り出してチップに定着させる、特殊な記録メディアまで開発した。

 結果として人間や愛玩動物といった一部の選ばれた生命体は、その技術の恩恵を受けて、望む限りの生をまっとうできるようになった。


 ジフリンスの揺り籠と名付けられたその技術は、世界を震撼させ、世の在り方を一変させた。もはや人間に祈るべき神は必要なく、離別の哀しみというものは、お伽噺のなかだけに存在するものとなった。


「なのにどうして、あいつは自分の悪性腫瘍を放ったままにしたんだ? どうして自分の肉体だけは機械と挿げ替えなかった? なあ、ジフリンス」


 ディイが目をすがめて私を見た。

 本人にその気がないのだとしても、彼の灰色の目に晒されると、罪を責められているような気持ちになった。私は無意識のうちに自分を守るように、白衣の上から自身の両腕を抱く。


「私に言われても……」


「お前もジフリンスだろう? あいつの記憶を継いでいるんじゃないのか」


「ジフリンスが私を造ったのは、彼女がまだ若かった頃だ。だから、どうして自死のような真似をしたのかなんて、私には分からない。そもそもお前がさっき話した犬の話だって、私は知らない──記憶にないんだ」


「あいつが必要と感じなかった記憶については、移し替えていないってことか。それともあえて消したのか? ……まったくあいつも人が悪い。それなら何も、こんな姿に造らなくても良かったじゃねえか」


 ディイがおもむろに私に手を差し伸べた。無造作に白衣の上に落とした長いプラチナブロンドを、彼の手がく。


 弾力のある白い肌に、きりりと生え揃った眉、色素の薄い碧眼。私は最盛期のジフリンスを写した機械の集合体──いわゆるオートマタだ。

 オートマタといっても、人工皮膚に覆われた私はひとめ見て人間と大差ないだろう。おまけにジフリンスの記憶を継いでいるのたから、私はジフリンスそのものでもあると言えるかもしれない。


 突然触れられて息を詰めた私の気配に気づいたのか、ディイはぱっと私の髪から手を離した。


「悪ぃ」


 彼はそう言って、手持ち無沙汰に煙草の入ったポケットをまさぐった。


 ジフリンスは長い研究の末に見出した技術を自分に施すことなく、初老といっていい年齢でその生涯を閉じた。ただ、ジフリンスの揺り籠という技術を維持するためには優秀な頭脳を持った者が必要で、その役目には彼女本人が適任だった。それを踏まえた彼女は私──もうひとりのジフリンスを遺して世を去った。


 私の存在が明るみになったとき、ジフリンスと同一のものして、より素晴らしい新技術を産むことに期待がかかった時期もあった。しかし、私は彼女の遺産の番人にすぎない。生前のジフリンスと同じ知識があっても、零から一を産むことが、私にはできなかったのだ。それは単にそういった可能性を彼女があらかじめ私から摘んでいたのか、それともこの技術がジフリンスの揺り籠という名前の通り、穏やかに揺籃するものであって、新しい世界へ手を引くものではないからなのかは、分からない。

 人々は落胆の眼差しを私に向け、ジフリンスは緩やかに過去の人になっていった。


「そういえば、潤滑油はオーランド社製で良かったのか? 今の機械技師はエルス社製を使うやつが多いんだけど」


 ディイが話の風向きを変えようとばかりに、さきぼど納品したばかりの商品を顎でしゃくった。その誘いに乗るように、私は白衣を翻して作業台に近づいて、さりげなくディイの側から離れた。


 作業台には修理を待つ、犬の前脚代わりのパーツがあった。ジフリンスの揺り籠に使われる機械は基本的には永久機関であり、細かな狂いは自身で調整する機能を有している。けれど、時々劣化品をつかんだ人間達が、私のところに泣きつきにくることがあった。そうした調和の取れていない機械を正しく調律するのも、この技術の創設者たるジフリンスの役目だった。


「ああ、オーランド社製でいい。確かにエルス社のものは粘度があって扱いやすいが、オーランド社の物が私は好みだ。透明度が高くて、適量を歯車に挿すと、本当になめらかに油が伸びて、いきいきと動くんだ」


 拡大鏡を使って、パーツのぜんまい部分を矯めつ眇めつしながら言う。羽よりも軽く砂粒より小さいぜんまいが、きらきらと輝きながら回るさまは、まるで小さな生命体の脈動のように映って、私にとってはこの上なく美しかった。


 私の物言いに、ディイは返事を返さなかった。何か意見されることを期待していた訳ではなかったが、それにしても相槌のひとつくらい打ってもいいのに。

 私は眉をひそめて彼を見た。


「おんなじことを言うんだな」


「……何が」


 私は不機嫌な顔のまま尋ねた。

 答えなんて、聞かなくても分かっていた。

 彼の顔の表情筋が弛緩する。


「ジフリンスと」


 そのとき、その台詞を吐いたときの彼の表情を、何と形容すればいいのだろう。迷子の子どもが親を見つけて安堵したような、いっときでも自分を見失った親を責めるような顔だった。

 私は彼の感情を把握しかねて、何と返すのが正解か分からず、唇を引き結んで沈黙を守った。


「当たり前だよな」


 へら、とディイは笑って、お前はジフリンスなんだから、と言った。どこか飄々としていていて掴みどころのない、愛想のいいディイの表情がそこにあった。ジフリンスの記憶通りの。


「また注文があればいつでも呼んでくれ」


 ディイは私の頭に手を乗せて、わしわしとつかむように撫でた。髪が乱れたが、構いはしなかった。これもジフリンスの記憶通り。何かをごまかすときの彼の癖。


「そうするよ」


 私はあえてそれ以上何も問いかけることはせず、口角を吊り上げて不敵に笑った。

 彼は空になった袋を片手に、背を向けたまま手をひらひらと振りながら、分厚い機械扉を抜けて、ラボから出ていった。


 ディイ・フラメール。ジフリンス・ヴェルナーの幼なじみにして、彼女の仕事に必要な道具なら何でも揃えたという機械パーツの商人。彼は、彼女の良き相棒とも言われていたらしい。

 ジフリンスが亡くなった三年前と同時期に、彼は突然すがたをくらませた。そうして何食わぬ顔で私の目の前に現れたのが、ちょうど一ヶ月前のことだ。

 彼は希少な商品を私のもとに持ってきては、ジフリンスの昔話に花を咲かせた。空白の二年と十一ヶ月、彼がどこで何をしていたのかは知らない。


 今になって思う。尋ねれば良かったと。行方不明のあいだ、どこにいたのかだけでなく、あの迷子の子どものような眼差しの意味を問いただせば良かったと。栗色の長い前髪の隙間から覗く眼に、ときおり宿る昏い光の理由を聞けば良かったと。


 私という個体は、結局どこまでいってもジフリンスと同じだった。ゆえに、私は彼女と同じまちがいをおかした。

 今さら悔やんでもどうにもならない。問いかけたかったはずの彼はいまや、永遠に私の前にあらわれることはないのだから。

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