ユキノ 三人称一元視点

「……行ってきます」

 市川雪乃(いちかわゆきの)は毎日が憂鬱だった。

 高校二年にもなって思うことは、本当にただそれだけ。月曜日になればこれがあと四回も続くのかと嘆き、土日を迎えてもこの解放された短い二日が終わればまたこの日々が始まる……本当にそんな思いの繰り返しだった。


「ちょっと市川さんさぁ、気を付けてくれる?」

「……なに……」

 昼休みのことだった。

 その日も廊下でぶつかった、と言われて雪乃は呼び止められる。

「今ぶつかったでしょ。私のスカートのホック外れたんだけど?」

 雪乃は視線で確認するがもちろん《彼女》のホックは外れてなどいない。それどころかぶつかってすらいないのだ。たしかに昼休み時で廊下は多少人が多かったから、すれ違う時に体をひねるように動く必要はあったが、それで《ぶつかった》というのはいいがりにすぎない。

 だが《彼女》は大声で廊下にいる全員に聞こえるように、

「ちょっとぉ! 市川さんが私のスカート脱がそうとしてきたんだけどぉ!」

 と叫ぶ。

 その《彼女》はニヤニヤと笑い、ある者は気まずそうにその場を立ち去り、ほとんどの者は聞こえなかったふりをして、しかしその誰もが見て見ぬふりをし行く末にだけは興味を持っていた。

「市川さんさぁ、昨日遅くにおっさんと歩いてたよね? 私たち、見ちゃったんだよね」

 品の無いその表情、口調は本当に進学校に通う生徒のそれか、と雪乃は思ってしまうが、どこにでもろくでもないやつはいるものだ。

《彼女》の取り巻きの一人がスマホの画面を見せてくる。そこに映っているのは確かに雪乃と、年齢は倍以上離れているスーツを着た男性だった。

「別にこれは……。ただバイトの帰りに駅に行く道を聞かれたから教えていただけ」

 だが《彼女》はにまりと口元をゆがめると、

「もしかしてアレ? バイト先はホテルとか?」

 取り巻きたちが「やば、市川さんって優等生のフリして大胆―」と茶化してくる。

 他にも隠し撮りらしき写真を数枚見せつけてくるが、雪乃は眼前に押し出されるスマホを振り払う。

「ごめん。これからお昼だから」

 それでも《彼女》は執拗に付きまとい、

「市川さんってさあ。お母さん居ないんだよね? 死んじゃったんだっけ? だからこんなバイトしてんの?」

「…………別にお母さんのことは関係ないでしょ。どいてちょうだい《池田》さん」

 中学のころ雪乃は、母親を亡くしている。当時はそのことでふさぎ込み、クラスメイトや学校の先生も気を遣ってくれた。だがそんな雪乃にどう接していいかわからない友達や大人との間には、徐々に壁が出来始め、中学三年にもなると、雪乃の周りには誰もいなくなってしまった。

 だから雪乃は自分を知らない人達しか居ない、都内の高校へ進学しやり直そうと決心した。南関東の実家からは電車で片道一時間はかかる。それでも父親を説得し、新しい環境へと身を投じた。

 結果、雪乃は都内でもレベルの高い進学校へ合格し、以前のように明るく振る舞うことが出来た。

 元々顔立ちやスタイルもよく、クールな雰囲気から男女から人気もあり、瞬く間に新しい環境で雪乃は幸せを取り戻したかに見えた。

 クラスで仲良くなった池田とも一緒に放課後は遊ぶようになったが、その時つい気が緩んだのか、唯一の自分の弱みである母親の死のことをぽろりと話してしまったのだ。

 それからだった。池田の雪乃へ対するあたりは徐々にきつくなり、二年になってクラスが変わるとそれは、ひどいいじめへとエスカレートしていった。

 もともと池田は中学までは学校の中心的人物で、いわゆるスクールカーストのトップにいるような人物だった。

 実家が金持ちらしく羽振りもよく、スポーツや勉強も人並み以上に出来たらしい。

 それでも雪乃が外部受験で転校してくると、学生として比較されるされる大部分で池田は雪乃に負けていた。学業、スポーツ、外見。そのどれもが雪乃の方が上だった。

 池田からすれば今までお山の大将でチヤホヤされていたのに、ぽっと出のどこの馬の骨ともわからないよそ者にその地位を奪われたのだ。

 今となっては《前は良かった》池田と、影で愛する人の死を乗り越えて、環境を変えるために努力してきた雪乃。どちらが魅力的かは火を見るよりも明らかだった。

 その《現実》に気づいた池田は、なんとか自分の地位を取り戻そうと、今となっては毎日のように雪乃の生活を侵食し始めたのだ。

「どいてくれる? 私、一人になりたいから」

 そう言って無理やり彼女たちを振りほどくと自分で作ったお弁当を持って駆け足でその場から離れる。後ろから「どうせまた屋上でぼっち飯なんだろ!」という笑い声は気にしなかった。

 ――どうしてこの世界は理不尽なんだろう。

 雪乃は毎日そう思いながら、一人屋上で食事を摂る。

 大好きなお母さんが作ってくれた定番のおかず。

 料理で包丁を扱うのにもようやく慣れてきたのに、腕を振るうのはあまり話さなくなった父親と、雪乃自分が食べる冷たいお弁当だけだ。

「私、誰のためにこんなことしてるんだろう」

 そんなことを独りごちて、ちびちびと昼食を食べ進める。

 そらを見ると、天気予報が少し早まったのか、雨雲がぐんぐんと迫ってくる。

 雪乃は手早く片付けると、教室へと戻る。ちょうど予鈴がなった頃だった。

 席について、椅子を引くと膝にぽたり、と液体が落ちた。

 驚き机の中を確認すると、ノートや教科書が牛乳でびしょびしょになっている。教室の後ろからは池田たちの笑い声が聞こえた。

 掃除用具が入っているロッカーを開け雑巾を取り出す。クラスメイトの誰もが何も言わず、ただただ雪乃の行動だけが異様に映し出される。

 拭き終わったが、買い直さないともうダメだ。雪乃は大きくため息をつく。

 ――どうしてこの世界はこんなに理不尽なんだろう。

 濡れた教科書とノートをビニール袋で包んで鞄にしまう。

 ちょうど教師が入って来たので、雪乃は「体調が悪いので早退させて頂きます」と告げると足早に教室を去った。

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